遺産分割協議書の落とし穴
その日、机の上には古びた封筒と、ボールペンで雑に書かれた「至急」とのメモが置かれていた。遺産分割協議書の作成依頼。依頼主は見たところ、ごく普通の中年男性だったが、どこか目が泳いでいた。
「とにかく兄弟とは揉めたくないんです。さっさと終わらせてください」と彼は言った。だが、さっさと、という言葉ほど、こじれた話の前振りであることを、我々は何度も経験してきた。
古びた実家と一通の依頼書
物件は地方の山あい、駅から車で30分以上のところにある築60年の木造住宅。母親が亡くなり、空き家になったため名義を変えたい、とのことだった。私はサトウさんに戸籍を取得するよう指示し、私は法務局の登記簿とにらめっこした。
登記上の所有者は確かに亡母で、昭和の終わりに取得して以来、一度も名義変更がなされていない。だが、妙に新しい補修の痕跡があった。誰かが最近まで住んでいたような形跡がある。
依頼主の違和感とサトウさんの観察眼
「この人、やけに急いでるわりに、実家の中身の話になると歯切れが悪いですね」とサトウさんがぼそっと言った。彼女の観察は鋭い。依頼主は遺産分割協議書の「他の相続人欄」に兄の名前しか書かず、「これで全部」と強調していた。
「確認取れてるならいいんですが」と私は応じたが、何か引っかかる。いや、正確には、何かをごまかしているような気がするのだった。やれやれ、、、こういうときはサザエさんのカツオのように、絶対何か隠してるのが常だ。
故人の秘密と戸籍の罠
戸籍を確認して驚いた。確かに依頼主とその兄の名があるが、数十年前、母親には婚外子としてもう一人の子がいた記載があった。しかも、その子だけが実家の住所に住民票を残したままだ。
「これ、放置して相続登記進めたら問題になりますよ。相続人が足りてません」と私は依頼主に伝えた。途端に彼の顔色が変わった。「ああ……やっぱり、バレますか」と、諦めたように呟いた。
見えない家族構成
依頼主は渋々話し始めた。実はその人物――異父兄弟にあたる男が、数年前から実家に戻り、母親の介護を一手に引き受けていたという。そして、彼が実家の名義を主張することを恐れて、存在ごと黙殺しようとしたのだった。
「兄とはうまくやってたんです。でも、アイツが出てきてから、全部おかしくなった」と依頼主は吐き捨てるように言った。家族という言葉が、どれほど重く脆いかを改めて感じさせられる。
本籍地から浮かび上がる矛盾
本籍を辿ると、その異父兄弟が他県に本籍を移していた記録があった。ただ、住民票は移していない。つまり、現在も「その家」に住んでいる法的根拠がある。これはやっかいだ。
「このまま登記を進めると、後で法定相続人から異議を唱えられる可能性が高いですね」と私が言うと、依頼主は肩を落とした。「司法書士って、そんなにいろいろ分かっちゃうもんなんですね」と皮肉めいて言う。
もう一人の相続人の影
私はその人物――異父兄弟の男性に接触を試みた。すると、驚くほど穏やかで、こちらの話にも丁寧に応じてくれた。「私が母と過ごした日々に価値があるなら、それで十分です」と微笑んだ。
だが、彼の後ろには、母親の介護記録や、手書きのメモ、そして未提出の遺言書の下書きのようなものが残されていた。彼自身は主張しないが、法的に無視できるものではなかった。
登記簿にない居住者の痕跡
登記簿には記載されていないが、その家に実際に住んでいた者の痕跡は、床の傷や冷蔵庫の中身、台所の調味料にまで及んでいた。生活感というのは、記録よりも雄弁なのだ。
「登記簿と現実のズレ、そこに事件の芽がある」などと、昔読んだ名探偵モノのセリフを思い出した。現実はフィクションほど劇的ではないが、時にそれ以上に厄介だ。
謎の手紙と封筒の筆跡
古い文机の中から、一通の手紙が見つかった。差出人不明、しかし封筒の筆跡は依頼主の兄と酷似していた。中には「お前が名義を主張したら、母さんの死は無駄になる」との脅しめいた内容が書かれていた。
私はそれをコピーして、慎重に保管した。「争族(そうぞく)になる前に、やることがあるでしょう」と、サトウさんが冷静に言った。
消された遺言と司法書士の勘
母親の死後、遺言書があるという話はなかったが、近所の人から「お母さん、何か紙に書いてたよ」との証言が得られた。私は再び実家に赴き、天井裏にあった古い茶箱を開けた。
そこには、劣化した紙が一枚、赤い紐に巻かれて残されていた。筆跡や形式は整っていないが、内容から明らかに異父兄弟への感謝と譲渡の意志が読み取れた。
火事で消えた書類の正体
しかし、依頼主は「そんなもの見たことがない」と言い張った。聞けば、遺品整理の際に「小さな火を焚いた」とも言っていた。意図的に処分しようとした可能性は高い。
「やれやれ、、、面倒なことに巻き込まれたもんだ」と、私は自分の手帳に小さく呟いた。まるで某怪盗が「次の予告状は赤坂方面」と残すかのような、意味深な一言だったかもしれない。
遺言の有無と登記情報の不一致
形式的な有効性は微妙でも、遺言の存在と意図は無視できなかった。私は家庭裁判所の調停を勧め、全員に通知を送った。登記の名義変更は一旦保留とした。
司法書士の役割は、依頼通りに処理することではなく、問題の種を見逃さないことにある。特に、家族という一筋縄ではいかない案件においては。
サトウさんが見抜いた細部の罠
事件がひと段落した後、サトウさんが一言。「あの人、筆跡で嘘ついてるってすぐ分かりましたよ。なんで男って、字が全部一緒なんですかね」。そう言って、彼女はプリンターの前に戻った。
私は思わず吹き出しそうになったが、確かに、封筒と脅迫文の筆跡はそっくりだった。結局、核心に近づいたのは、彼女の地味な一言だったのかもしれない。
名義変更に潜む小さな嘘
司法書士として、私は書面の整合性を何度も確認する。そこに小さな嘘があったら、それは必ず他の部分でも矛盾を生む。今回もそうだった。
依頼主は、最終的に兄弟での合意を取り、法的に正しい形で登記を完了させた。ただし、彼の目にはどこか納得していない影が残っていた。
司法書士が証明した真実
「法律が家族を救えるとは限らないけど、最低限の線は引けます」と私は彼に伝えた。それが伝わったのかどうかは分からない。ただ、私は自分の役目を果たしただけだ。
そして、それを誰がどう受け取るかは、もう私の仕事ではない。野球で言えば、投げた球が打たれるかどうかは、こっちじゃなくて相手の問題だ。
家族という名の謎を解いた日
家族とは、登記簿にも載らず、相続税申告にも現れない、曖昧な感情の集合体だ。その曖昧さが、今回の事件を生んだ。
帰りの車の中、サトウさんは言った。「今回の件、どこにでも転がってそうですね」。私はうなずいた。「まったくだ。次もありそうだな」と、私はシートを倒した。
最終的な名義と真実の所在
最終的に、実家の名義は3人の相続人で共有とされた。誰一人、完全な正義でも完全な悪でもなかった。ただ、それぞれの立場と感情が、複雑に絡み合っていただけだった。
「やれやれ、、、次はもう少し静かな案件を頼むよ」と、私は独りごちた。だがそれは、叶わぬ願いだということも、十分に分かっていた。