導入の朝とひと通の封筒
朝の空気は湿っていた。事務所の窓に結露がうっすら浮かび、僕の視界を曇らせているようだった。デスクの上には、見覚えのない封筒が一枚置かれていた。差出人は不明、けれど宛名は僕の名前だ。
「またなんかの嫌な予感がするな……」ぼそっと呟くと、後ろの席から鼻で笑う気配がした。そう、サトウさんである。彼女が笑うとき、それはたいてい正しい方向に僕が間違っているときだ。
サトウさんの無言の出勤
今日も無言でサトウさんが事務所に入ってくる。彼女の歩く音だけがフローリングを小気味よく叩き、僕の胃に不安を投げ込んでくる。彼女のコーヒーを淹れる所作は完璧で、僕の雑な書類の束とは対象的だ。
「封筒、開けたらどうです?」それだけ言って、自分のPCを立ち上げるサトウさん。その塩対応すら、僕にはありがたく感じる日もある。まさに今日はそんな日だった。
謎の封書と登記事項証明書
封筒の中には、失恋を告げる手紙と一枚の登記事項証明書が入っていた。手紙の文面は簡潔で、しかし妙に感情が込もっている。「あなたとの未来は、もうこの家に存在しません」とあった。
証明書には、数日前に行われた所有権移転が記載されていた。売買か、贈与か――それよりも、なぜ僕宛てにこれが届いたのか、がわからなかった。
元恋人からの失恋通知
手紙の筆跡は、忘れられない彼女のものだった。5年前に別れた、あの人の書く「さ」の癖を、僕は今でも覚えている。けれど、なぜいまさらこんなものが?
登記簿の内容から察するに、彼女は一軒家を手放した。僕たちがかつて一緒に住む予定だった、あの家だ。実現しなかった未来と、現実だけが、こうして書面で僕の前に差し出されていた。
別れ話と所有権の変更
書面には「売買」とあった。けれど、売却金額の記載が異常に低い。それは、感情の整理を登記で済ませようとした結果なのかもしれない。つまり、彼女は形式的に別れを再確認しに来たのだ。
やれやれ、、、この仕事をしていると、人の心まで書類で知ることがある。登記簿は冷たいのに、時としてこんなにも熱を帯びてくる。
登記に隠された奇妙な時間差
妙なことに気づいたのは、その日の昼過ぎだった。登記事項証明書の発行日と、送付された日付に違和感がある。封筒には消印がない。
つまり、郵便ではなく、誰かが直接事務所に持ってきたということだ。だとすれば、これは単なる偶然ではない。僕宛てに誰かが、意図的に届けに来たのだ。
申請日と送付日が合わない
不動産登記の申請日は1週間前。しかし、その日に彼女は既に死亡していたという情報が、翌日役所から飛び込んできた。死亡届と登記申請のタイミングが完全に食い違っていたのだ。
僕の背中に冷たい汗が流れた。誰かが、死者の名義で動いた……?まさか、と思いたかった。
前所有者の急死という報せ
その晩、彼女の妹を名乗る人物から電話があった。「姉は急死しました。遺言などもなく、家のことで混乱していて……」と。
彼女は、亡くなる直前まで登記の相談をしていたらしい。けれど実際に申請された書類には、どこの司法書士の関与もなかった。僕の仕事ではない。それなのに僕のところへ届いたのは、何の意図か。
恋人の死と登記の謎の関係
僕は電話の声に混乱しながらも、淡々と質問を重ねた。登記の代理人欄は空白だった。彼女が一人で法務局に出したと仮定しても、死後に処理が完了しているのは不可解だ。
もしかすると、他人が彼女になりすまして書類を作成した可能性がある――いや、仮にそうでも、なぜその書類が僕の元に?
サトウさんの冷静な分析
「変ですね、普通は申請完了通知が司法書士宛に届くものですけど」 サトウさんが、淡々と調べながら言う。 僕がポカンとしていると、すでに法務局への照会文の作成に入っていた。
彼女は感情を見せないが、機械のように正確だ。頼りになる――が、怖い。まるでルパンの次元がマグナムを回すような冷静さで、書類を揃えていく。
故意に操作された申請タイミング
「これ、申請日付が未来で先日付になってますね。おそらく、委任状があったんでしょう。偽造かどうかは調べますが」 僕は思わず「うわ」と声を漏らした。 司法書士として、これは見過ごせない。
「もしかして誰かが、彼女の死を利用して不正登記を?」 サトウさんは頷くだけだった。その目は、サザエさんで波平がカツオを叱る時のように、厳しく光っていた。
誰が何のために仕組んだのか
僕は元恋人の人間関係を洗い直した。すると、過去に金銭トラブルがあった元交際相手の名前が浮かび上がった。彼は司法書士に成りすまし、自ら登記申請を出した可能性が高い。
動機は単純だった。家を売って金に換えたい。しかし本名では動けない。そこで、死を利用して名義を操作したというわけだ。許せない話だ。
金ではなく復讐の気配
ただ、それだけでは終わらなかった。書類に挟まれていたメモに「君は僕を捨てた、今度は家が君を捨てる番だ」とあった。完全に私怨だった。 それでも、彼女の遺志を踏みにじる権利はない。
僕は関係各所に連絡を取り、本人確認の不備を指摘し、登記の抹消手続きを開始した。 やれやれ、、、気づいたら夜になっていた。
登記簿が語る最期の言葉
再発行された登記事項証明書には、彼女の名前が戻っていた。 それはまるで、彼女が最期に伝えたかったメッセージを、登記簿という形で僕に送ってくれたようだった。
彼女の家は、妹が相続することになった。売却はせず、残すそうだ。僕は安堵しながら、書類をファイルに戻した。誰かの人生を守るために、今日も僕は登記と向き合っている。
証明書が証明しなかった真実
すべてが記されるわけじゃない。登記簿は、事実を記すが、真実を語らない。 その隙間を埋めるのが、僕ら司法書士の仕事なのかもしれない。
少なくとも今回は、僕にしかできない役目だったと思いたい。元恋人の涙の理由も、怒りの動機も、すべて書類の裏に滲んでいた。
やれやれまた巻き込まれたな
「全部、片付きましたよ」サトウさんが告げる。 「ふーん、やっぱり司法書士って便利屋なんですね」 塩すぎるコメントに、思わずため息をつく。
「やれやれ、、、」 気づけば、もう次の書類が積まれていた。
それでも書類は片付けなければならない
現場の真実は書類に宿る。それを読み解くのは僕の仕事だ。たとえそれが、恋の残骸であっても、失恋通知であっても。
「この仕事、案外ロマンチックかもしれないですよ?」 コーヒーを差し出すサトウさんの笑みは、ほんの少しだけ、いつもより柔らかく見えた。