事件の始まりは一通の電話だった
午前11時、コーヒーを飲み干していたちょうどその時だった。鳴り響いた電話の主は、中年の女性のようだった。声の調子は落ち着いていたが、その言葉の端々には焦りがにじんでいた。
「実家の登記を確認したいんです。できれば今日中に」——その一言に、ぼくの背中を汗が伝う。今日中?また無茶を言ってくれる。
書類の整理中にかかってきた妙な依頼
棚に埋もれていた古い相続関係説明図をかき分けながら、サトウさんが淡々と応対を続けている。耳を澄ますと、どうやら登記簿と実際の名義人に食い違いがあるようだ。
やれやれ、、、今週はすでに3件の相続案件を抱えてるってのに。ぼくは手帳を閉じて立ち上がる。出張登記調査、久々の現地調査か。
古い家屋の登記に隠された矛盾
法務局で取得した登記事項証明書には、昭和49年に登記されたままの名義が残っていた。「佐久間清三」——どこかで聞いたような名前だった。
「変ですね、亡くなってるのに所有者のままなんて」とサトウさんが言う。変だ、いや、こういうのは意外と多い。しかし、その後ろに何かがあるとしたら——。
忙しい日常に忍び寄る違和感
その日も来客の波は途切れなかった。住宅ローンの完済登記、法人登記、そして夜には成年後見の相談。あの家のことなど忘れそうになっていた。
しかし、サトウさんが持ってきた古い新聞記事のコピーが、すべてをひっくり返すことになる。「佐久間清三、昭和55年失踪」——その見出しに、ぼくは言葉を失った。
サトウさんの冷静な指摘
「失踪宣告されていれば、法的には死亡扱いのはずですよ」サトウさんの指摘は的確だった。だが、登記簿に変動がなかったのはなぜか。
普通は誰かが相続登記をする。それをしていないということは、何かを隠しているか、あるいは——忘れたい過去なのかもしれない。
なぜか急ぐ依頼主の態度
再度連絡を取ったところ、依頼主は「今週中にすべて終わらせてほしい」と強く言ってきた。売却でもするのかと問うと、「事情があって」と濁された。
どうにも引っかかる。ぼくは一度、その家を訪ねてみることにした。事務所から車で40分ほどの、郊外の静かな住宅街だった。
登記簿の記載に潜む謎
家は昭和の香りを残した木造建築だった。塀の隙間から庭の草が伸び、誰かが最近まで手入れしていた形跡がある。無人ではない——直感がそう告げていた。
ポストには誰かが取り出した形跡のある郵便物。裏口には新しい南京錠。登記簿には何もないのに、現実には誰かがこの家を管理している。
住所は存在するが所有者が不明
法務局で調べても、この土地と建物の所有者は未だに「佐久間清三」のままだ。相続人すら登記されていない。信じられないが、これは法律的には「幽霊屋敷」だ。
「司法書士というより探偵の仕事ですね」サトウさんがぼそりとつぶやいた。まさか、これってサザエさんの家もこんなふうに誰の名義か不明なんじゃ——。
噂の住人と消えた所有者
近隣の住民に聞き込みをすると、ぽつぽつと奇妙な証言が集まった。「最近も若い男の人が庭の掃除に来てたよ」「たしか…前の家主の息子さんじゃないかな」
登記には現れないもう一人の“住人”。ぼくは依頼人に再度連絡をとり、会う約束を取り付けた。喫茶店で現れたのは、物腰の柔らかい30代の男性だった。
近隣住民の証言に揺れる真相
彼は「佐久間清三の孫」だという。そして実は、自分の父が名義変更をしないまま家を相続しており、その父も3年前に亡くなったと話した。
つまり現在の所有者は彼ということになる——しかしそれを証明するには遺産分割協議書や戸籍など、書類の山が必要になる。だがそれを急ぐ理由は何なのか。
書類に現れた第二の名前
彼が持参した段ボールの中に、一通の遺言書の写しがあった。そこには「この家は佐久間一馬に相続させる」とある。つまり、名乗っていた男のことだ。
だが、印鑑証明もなければ検認もされていない。いわば、法的効力はないに等しい。それでも、彼はこの家をどうしても自分の名義にしたかった。
相続登記がされていない理由
理由を尋ねると、彼は静かに答えた。「祖父と父が長年絶縁状態でして。父は家を憎んでいました。それで登記のことも触れずに亡くなったんです」
そして——彼の目は少し潤んでいた——「でも僕は、ここで家族をやり直したいんです」。そうか、やれやれ、、、こういう案件は書類だけじゃ片付かない。
解決とその後の日常
必要な戸籍を集め、遺産分割協議書の草案を作り、何度も修正を重ねた。数日後、無事に名義変更の登記が完了し、登記事項証明書を手渡すと、彼は深く頭を下げた。
事務所に戻ると、机の上には次の案件のファイルが山積みだった。「おかえりなさい。次は農地転用の相談です」サトウさんが淡々と書類を差し出す。
シンドウの疲れた背中と缶コーヒー
自販機の前で缶コーヒーを買いながら、ふと空を見上げる。どこかでまた、静かな家が誰かを待っているのかもしれない。司法書士の仕事は、決して派手じゃないが人を支えている。
やれやれ、、、明日もまた、書類の海に溺れるのか。けれど少しだけ、気分は軽くなっていた。