親戚のまだ結婚しないのが胸に刺さる季節
またこの季節が来たと思うだけで憂うつになる
夏休みや年末年始、いわゆる「親戚が集まる日」が近づいてくると、いつも決まって胃が重くなる。特に親の兄弟やその配偶者が勢揃いする場では、逃げ場のない問いが飛んでくる。「まだ結婚しないの?」。毎年聞かれるとわかっていても、慣れることはない。そんなことを言われたくらいで、と言う人もいるかもしれない。でもそれは、痛みを知らない人の言葉だ。年齢を重ねれば重ねるほど、その一言が胸の奥に深く突き刺さるようになるのだ。
家族が集まる場所が一番孤独に感じる理由
家族が揃うというのは、世間では「温かい時間」とされている。しかし、独身の私にとってはむしろ逆だ。和やかな空気の中に、自分だけが異質な存在として浮いている気がしてならない。子どもの話、夫婦の話、家のローンの話。どれも私には縁のない話ばかり。笑顔の中で話を合わせようと頑張る自分が、どんどん虚しくなっていく。そう、家族の場こそ、もっとも自分の孤独を突きつけられる場所だったりする。
親戚の無邪気な一言が心をえぐる
「まだ結婚しないの?」「いい人いないの?」それは挨拶かのように繰り返される。でもこちらからすれば、それは地雷を踏むような爆音だ。悪気がないのは分かっている。でも、だからこそ困る。こちらが傷ついたことを伝えると「そんなつもりじゃなかった」と返され、ますます言えなくなる。結局、ひとりで苦笑いしながらその場をやり過ごすしかない。誰にもわかってもらえないその孤独が、一番堪えるのだ。
気にしなきゃいいと言われても気になるものは気になる
「気にしすぎだよ」と軽く言う人がいる。でも、その言葉がまたつらい。気にしたくて気にしているわけじゃない。無理やり笑っても、心の中ではぐるぐると「自分はダメなのか」「間違ってるのか」という声が渦巻いている。気にしないって、そんなに簡単なことじゃない。そういう人たちこそ、当事者になったときに一番傷つくんじゃないかと、皮肉めいた思いが浮かんでしまう。
独身=問題ありという空気に飲まれそうになる
特に地方では、独身のままでいること自体が疑問視される。まるで「何か問題があるから結婚していない」と決めつけられているように感じる。仕事を一生懸命していても、それは「忙しすぎるからダメなんだね」と捉えられる。いや、そうじゃない。ただ、縁がなかっただけだ。出会いがなかった。もしくは、今の生活が精一杯。それだけのことだ。
年齢と独身と信用の話
司法書士という仕事をしていると、信頼される場面もある。でも、年齢と独身というだけで「何か欠けている人」という印象を持たれることも正直ある。家を買いたいという若い夫婦の手続きに立ち会っているとき、ふと「この人は家庭がないのか」といった視線を感じることがある。それが思い過ごしであっても、自分の中にある劣等感がそう感じさせてしまうのだ。
結婚していれば一人前という幻想
結婚して子どもを持ち、家庭を築くこと。それが人生の「正解」だとする考えが、いまだ根強く残っている。それは尊いことだ。でも、それだけが正しいわけじゃないはずだ。仕事を通じて社会に貢献する生き方だってあるし、誰かの助けになる存在であることに変わりはない。結婚していないことを理由に、自分の価値が減るような空気には、どうしても納得がいかない。
仕事では信頼されてもプライベートでは疑問符をつけられる現実
事務所では私なりに必死で仕事をしている。登記の正確性、相談対応、期限の管理、どれも手を抜けない。でも、仕事を離れた途端、ただの「独身のおじさん」になる。どれだけ忙しくても、どれだけ成果を出していても、結婚していないことで一歩引かれてしまう。なんとも言えない不公平感が、胸の奥にいつまでも残る。
司法書士という仕事に逃げたつもりはないけれど
若い頃、野球部だった私は、結婚して家庭を持つ未来をぼんやりと描いていた。でも、いつの間にか目の前の仕事に全力で走っていた。そして気づいたら、独りだった。逃げたつもりはない。むしろ、向き合ってきたつもりだ。だけど、他人から見れば、仕事に逃げた男に見えるのかもしれない。
土日も仕事 漏れなく行事もパス
司法書士の仕事は思いのほか不規則だ。平日に終わらない案件、急ぎの対応、役所とのやりとり……結果として、土日も仕事になってしまう。婚活イベントなんて行ったことがないし、行く余裕も気力もない。気がつけば、お盆や正月に集まることすら億劫になってしまった。誰に会っても、結局「まだ結婚しないの?」が待っているからだ。
婚活の時間 そんなもんあるわけがない
結婚相談所に行けとか、アプリを使えばいいとか、簡単に言われる。でも、一日中数字と登記簿とにらめっこして、夜は事務所で溜まった仕事を片付けて……そんな生活の中で、どうやって心を開いて誰かと向き合えばいいのか。ただの言い訳なのかもしれない。でも、現実として本当に時間も気力も残っていないのだ。
誰の人生を生きているのか分からなくなる瞬間
ふと我に返ると、自分が何を目指していたのか分からなくなる。人にどう見られるかを気にして、社会の期待に応えようとして、どこかで自分の本心を置き去りにしてきた。自分の人生なのに、誰かのために形を整えようとするこの矛盾。そんな虚しさが、時々、胸にこみ上げてくる。
比べることに疲れた心
同級生が家族旅行の写真をSNSにアップしている。子どもの入学式や運動会の話題が当たり前のように飛び交う。そんな投稿を見て、笑って「いいね」を押しながら、心の中では複雑な感情が渦巻く。比べても仕方ないとわかっていても、つい比べてしまう。そしてまた、自分を責める。このループに、心がどんどん疲弊していく。
普通に追いつけなかったという痛み
「普通」に結婚して、「普通」に家庭を持って、「普通」に老後を迎える。そんな普通の人生に、自分はどうしても追いつけなかった。走ってきたはずなのに、なぜかゴールが見えなかった。もしかしたら、自分にとっての「普通」は、他人とは違う場所にあったのかもしれない。そう思わないと、やってられない。
ちょっとだけ心が救われた日もあった
そんな私でも、少しだけ心が温かくなった日がある。ある依頼者の方から、「先生みたいな人に会えてよかった」と言われた瞬間だ。誰かに必要とされたという感覚が、自分の存在を肯定してくれる。結婚してなくても、家庭がなくても、それでも自分は誰かの役に立てるんだ。そう思えたとき、ほんの少しだけ胸を張れた。
ある依頼者の言葉に思わず涙がこぼれた
「私、先生のような誠実な方に頼めて、本当によかったです」そう言われたとき、不覚にも涙が出そうになった。自分がしてきた仕事が、誰かの人生の支えになっていた。そんな実感が、これまでの孤独や葛藤を少しだけ癒してくれた。やっぱり、この仕事をしていてよかったと、心から思えた瞬間だった。
頑張ってるの ちゃんと誰かが見ている
どんなにしんどくても、誰かが見ていてくれる。その言葉を信じるのは簡単ではない。でも、自分の努力が誰かの人生を少しでも良くするなら、意味があると思いたい。たとえ独りでも、誰かの役に立てるなら、それはもう立派な生き方だ。そう思って、今日も仕事をする。