誤解されても誰にも説明する元気がない

誤解されても誰にも説明する元気がない

説明する元気すら残っていない日がある

「あの人、ちょっと冷たいよね」と言われたことがある。でもその日、朝から電話は鳴りっぱなしで、役所と金融機関を何件も回り、依頼者からの無茶な要望にも頭を下げ続け、昼ご飯すらコンビニおにぎりを車の中でかき込んだ日だった。そんな状態で、誰かのちょっとした言葉に説明を返す余裕なんて残っていない。ただ黙って「はい」とうなずくしかできなかった。疲れすぎて、感情の整理すらできなくなる日があるのだ。

わかってほしいけど、わかってもらうのがしんどい

人に誤解されるのは、正直つらい。とくに、誠実に仕事をしているつもりなのに「冷たい」とか「適当」なんて思われると、心がささくれる。でもその誤解を解こうとするには、言葉を尽くさなければならない。それには気力も体力も必要だ。正直、そのエネルギーすら残ってない。だから黙ってやり過ごす。そしてまた「やっぱり冷たい人なんだ」と思われていく。悪循環だと分かっていても、どうにもできない。

忙しすぎて、自分の感情を処理する暇がない

朝イチで来るLINE、「今から電話していいですか?」。それに返信する間もなく事務所の固定電話が鳴る。書類をプリントアウトしながら、次の案件の段取りを頭の中で組み立てて、昼には依頼者との面談。15時には法務局、戻ったらPCの前で山積みのメールと登記申請書類…。気づけば夜で、晩ごはんはカップ麺。そんな毎日の中で、自分がどう感じているのかすら考える暇がない。疲れてることに気づくのも遅くなる。

「誤解されてるな」と気づいても、訂正する気力がない

「あの時の対応、ちょっとそっけなかったですよね」と依頼者に言われたことがある。本当はそのとき別件で緊急対応中だった。でも「すみません、あの時は…」と説明しようとして、途中でやめた。「言い訳」と取られたらさらに傷つくと思ってしまったし、何より面倒くさくなったのだ。誤解されてるとわかっていても、「まあいいや」と思ってしまう。こういうのが積み重なると、ますます孤独になる。

そもそも、なぜ誤解されるのか

誤解の大半は、コミュニケーション不足から生まれる。でもその背景には、司法書士という仕事自体の「見られ方」と「実態」のギャップもあると思う。まじめそう、しっかりしてそう、全部完璧に対応してくれるはず——そういう期待が、気づかないうちにこちらを縛ってくる。そして、ほんの少し気が抜けた瞬間や、淡白な対応があっただけで「思ってたのと違う」となる。ギャップがある限り、誤解はなくならないのかもしれない。

司法書士という職業のイメージと実態のズレ

「士業」ってだけで、きちんとしていて、いつも丁寧で、抜けがなくて、偉そうじゃないのに信頼できる——そんな理想像を勝手に描かれていることが多い。でも、実態は泥くさい書類仕事と、ひっきりなしの電話対応と、地味なルーティン作業の連続。人間なんだから、抜けもあるし、余裕がない日もある。それを「この人、思ったより雑なんだ」と取られると、心がえぐられる。

「先生」と呼ばれることへの違和感

「先生」と呼ばれるたびに、どこかで気まずくなる。呼ばれる側も人間だし、家庭がある人も、独り身の人も、朝寝坊する日だってある。そんな「完璧じゃない部分」を隠して、「先生」として振る舞い続けるのがしんどいときもある。こっちはただの中年男で、最近は髪も薄くなってきて、趣味といえばスーパーの特売日を把握してるくらいなのに。

お金の話ばかりしてると思われてしまうつらさ

「先生、すぐ金の話しますよね」って言われたことがある。そりゃそうだ。報酬をどういただくかは大事な話だし、トラブル防止にもなる。でも、「金にがめつい」と言われると悲しい。料金を提示するときのタイミングや表現、何度も気を使っているつもり。でもそれが伝わらないと、冷たく見えるらしい。なんだかもう、どうすればいいかわからなくなる。

事務所を一人で回す孤独と重圧

事務員さんはいるけれど、最終的な責任を負うのは自分ひとり。誰かに仕事の内容や方針を話したところで、同じ視点では受け止めてもらえない。相談しても「大変ですね」で終わってしまうと、かえって虚しくなる。自分の中にため込むしかない。そうしてまた、「なんでこの人は無口なんだろう」と思われる。いや、無口なんじゃなくて、言葉が出てこないだけなのだ。

雇っている事務員にすら本音は言えない

事務員さんには本当に感謝してる。でも、だからこそ言えないことも多い。「今日の依頼者、正直ちょっときつかった」なんて言ったら、悪口みたいになる。「もう無理かも」と思ったこともあるけど、そんなこと話して不安にさせたくない。だから黙って、いつものようにコーヒーを淹れて、「この書類お願いできますか?」とだけ言う。どんどん孤独になっていくのはわかっている。

誰にも頼れないという思い込み

「頼ってもいいよ」と言ってくれる人がいても、心から頼るって難しい。自分が頑張らないと全部が止まる気がしてしまうし、誰かに迷惑をかけたくないという思いが強すぎるのかもしれない。結果として、ますます誰にも頼れなくなる。そして疲れ果ててしまう。誰かに助けを求めるって、実は一番の勇気がいる行為だと思う。

説明しないことで守れるものもある

何もかもを言葉にしていたら、自分が壊れてしまう。誤解を解こうとするたびに傷ついていたら、続けられない。この仕事を続けるために、黙る選択をすることもある。「誤解されてもいいや」と思えるようになるまでに、何年もかかった。たぶん今も完全には割り切れていないけど、昔より少しだけ、自分を守ることがうまくなった気がする。

いちいち説明してたら仕事が進まない

正直、ひとつひとつの誤解に丁寧に向き合っていたら、仕事にならない。「なんでこういう対応なんですか?」と聞かれて、毎回制度の背景や前例を話すのは無理だ。時間がないし、体力もない。だからこそ「すみません、これでお願いします」とだけ伝える。相手が納得してない顔をしてても、それ以上言えない。それが今の限界なのだ。

相手の理解よりも、自分の回復が先

「伝わらなかったらどうしよう」よりも、「自分が壊れないようにしよう」という選択をするようになった。誤解されても、自分が生き延びる方が大事。優しさを持ち続けるためにも、まずは自分を休ませないといけない。無理して笑ってたら、いずれ本当に笑えなくなる。だから今日も、黙って目の前の仕事を片付ける。それでいい。今はそれで、いい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓