ピントが合わない朝、老眼との静かな戦争が始まった

ピントが合わない朝、老眼との静かな戦争が始まった

朝の違和感に気づいた瞬間

司法書士という仕事柄、毎日文字を読み続けるのは当然のこと。でも、ある朝ふとスマホを手に取ったときの違和感――それがすべての始まりだった。目が覚めきってないだけだと思いたかったが、どうにも文字が滲んで見える。光の加減かとも思ったけど、何度も画面を傾けても変わらず…。まさか、と思いたくなかったが「老眼」という言葉が頭をよぎった。認めたくない気持ちと、どうしようもない現実との間で、静かな戦争が始まったのだ。

スマホの文字がぼやける日が来るとは

以前は寝起きでもスマホの画面を難なく読めた。LINEの通知も、ニュースアプリも、細かい字までパッと目に入ってきた。それが最近ではどうも焦点が合わない。指で拡大して読もうとしても、指の方が先に目立ってしまう始末。周りの同年代の仲間が「ついに老眼きたわ〜」と笑っていたのを、どこか他人事のように聞いていた自分が、今やその当事者になっているとは…。まさか、まさか、まさかだった。

明け方のメール確認で見えなかった文字

早朝、依頼人から緊急連絡が入り、慌ててメールを開いた。そこに書かれている住所と日付を確認しようとするも、ピントが合わない。「あれ?」と何度も目をこすったり、メガネをはずしたりしてみたが改善されない。最終的にはスマホを思いっきり遠ざけて、やっと読めるという有様。まるでコントのような動きだったが、誰も笑ってはくれない。自分の体が静かに、確実に変わっていくのを突きつけられた気分だった。

画面を遠ざけて読む自分にショック

画面を腕いっぱいに伸ばして読む自分の姿が、反射で窓に映った。驚いた。そこには、年老いた親父のような自分がいた。たしかに若くはない。でも、気持ちはまだまだ30代のつもりでいたからこそ、その映像はショックだった。「ああ、自分もこういう段階に入ったのか」と受け止めざるを得ない。そして、なんとも言えない敗北感。老眼というのは、ただ文字が見えにくくなるだけじゃない。自尊心にもチクチク刺さってくる。

見えないより、見えにくいのがつらい

完全に見えないならいっそ潔い。でも、老眼の厄介なところは“中途半端”に見えることだ。なんとなく読める、でも確信が持てない。特に仕事のように正確さが求められる場面では、この「たぶん合ってる」が怖い。念のために拡大したり、事務員に見てもらったりするその手間が、自分の信頼感や自信を少しずつ削っていく。見えにくい、というだけでこんなにも心が疲れるものなのかと、今さらながら思い知らされた。

「気のせい」と思いたかったけれど

最初は目が疲れてるだけだと自分に言い聞かせた。でも日が経つごとに、見えにくさは確実な“現象”として積み重なっていった。書類のチェックミス、読み飛ばし、二度見。目が原因で仕事のスピードが明らかに落ちている。そんなとき、事務員が一言。「先生、最近目、悪くなりました?」――ズドン、と胸に刺さる。「違う、ただの疲れだ」と返したが、内心ではもうわかっていた。「これは、気のせいなんかじゃない」と。

事務員の何気ない一言が刺さる

普段は気さくで、あまり突っ込んだことを言わない事務員の、その素朴な一言が、なぜか一番心に響いた。「先生、老眼ですかねぇ?」と笑い混じりで言われたとき、笑い返せなかった自分がいた。相手は何も悪くない。むしろ気を遣って軽く言ってくれたんだろう。でも、自分が認めたくなかった現実を、あっさりと突かれてしまったような気がして、返す言葉がなかった。情けなさと悔しさがじわっと込み上げた。

仕事にじわじわ影響を与える“見えにくさ”

視力の衰えは、ただの身体的な変化にとどまらない。とくに司法書士という職業では、正確な読み取りや判断が命。登記簿、契約書、委任状、確認事項…日々目を酷使する業務の中で、わずかな「見えにくさ」がミスに直結する怖さがある。見落としや記載ミスは絶対に許されない。だからこそ、自分の目に対する信頼が揺らぐと、不安がどんどん膨らんでいくのだ。まるで、自分の武器が鈍っていくような感覚だった。

登記簿の細かい字が苦痛に変わる

以前なら、どんなに細かい地番でも一瞬で確認できた。それが今は、文字を一行ずつなぞるようにして読まないと不安でならない。特に手書きの資料やFAXで届いた薄い文字なんかは最悪だ。目を細めたり、照明を強くしたり、メガネをずらしたり、もう一苦労。集中して読むだけでどっと疲れる。そのせいで仕事のスピードも落ちるし、内容の見直し回数も増える。つまり、目の衰えはそのまま“時間のロス”にもつながるのだ。

確認作業がいつの間にか倍の時間

登記手続きはとにかく細かいチェックの連続だ。それが、老眼によっていちいち画面を拡大したり、紙を持ち上げて角度を変えたりしながら読むようになってしまった。その結果、確認作業にかかる時間が以前の倍になった。集中力の維持も難しく、15分も続ければ目の奥がジンジンしてくる。誰かに頼みたいけれど、任せられる内容でもない。結局、最後は「やるしかない」と一人でぶつぶつ言いながら机に向かっている。

疲労とストレスがダブルで襲う

見えにくさは、ただの身体的負担にとどまらない。読めないことでストレスがたまり、集中力が切れ、イライラが募ってくる。加えて、それが原因で仕事が遅れると、さらに自己嫌悪に陥る。そんな悪循環の中で、気づけばため息ばかりついていた。「こんなはずじゃなかった」「まだ若いと思ってたのに」と、自分に文句を言いたくなる。だけど時間は戻らない。だから余計に、目の衰えを受け入れるのがしんどいのだ。

老眼鏡を認めることへの抵抗感

ついに買ってしまった、老眼鏡。でも、使うたびにどこか負けたような気分になる。メガネをかけた瞬間に「老けた」と思われそうで、人前ではできるだけ避けてしまう。家でこっそり使い、事務所では裸眼で粘る…そんな自分の姿が、また情けない。見栄や意地があるわけじゃない。単純に「自分が老いた」と認めるのが怖いだけだ。老眼鏡という道具一つに、これほどまでに心がかき乱されるとは、思ってもみなかった。

「まだ若い」と言い聞かせていた日々

45歳。世間的には中年と言われる年齢。でも、気持ちだけはずっと若いつもりでいた。だからこそ、老眼という現象を「自分にはまだ早い」と否定し続けていたのだと思う。でも現実は、スマホの文字も見えづらく、書類の確認も苦労する毎日。何度「まだ大丈夫」と言い聞かせたことか。でも、体は正直だ。どれだけ否定しても、見えにくさは隠せない。「若い」という言葉にしがみついていた自分が、ちょっと切なくなる。

視力だけじゃない、“老い”との付き合い方

老眼を通じて感じたのは、「見えにくくなること」よりも、「衰えを認めること」の難しさだった。目に見える変化は、心にもじわじわと影を落とす。体が老いるだけでなく、心まで引きずられていくような感覚。その中でどうやって自分と付き合っていくか、それがいまの自分にとって最大のテーマかもしれない。老眼はきっかけにすぎない。これからも訪れるであろう“衰え”との向き合い方を、ゆっくりでも見つけていきたいと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。