朝の静けさに忍び寄る足音
誰もいないはずの事務所
その朝、事務所に一番乗りしたのは僕だった。外はまだ霧がかかっていて、郵便受けにもチラシしか入っていない。なのに、机の上には一通の封筒が置かれていた。鍵は閉まっていたはずだが……。
差出人不明、宛名なし。中身は契約書のような書類が一枚。だが、依頼人の名前がどこにも書かれていない。これが、ただのいたずらで済めば良いのだが。
静まり返った事務所に、かすかな不穏さが立ち込めていた。
一枚の封筒と無記名の書類
その書類は形式的には完璧だった。物件情報、代理権限、日付まですべてが記されている。だが、肝心の「依頼人欄」が白紙だった。署名もなければ印鑑もない。これでは、ただの空文書に過ぎない。
書類の隅には「至急ご確認ください」とボールペンで書かれていた。筆圧は強く、紙が少し凹んでいた。
サトウさんが見れば、なにか気づくかもしれない。僕はいつも通り、彼女の観察眼に頼るしかなかった。
依頼内容の奇妙な違和感
住所はあるが名前がない
不動産の住所は、市内でも古くからある住宅街の一角だった。謄本を見れば、所有者の情報は出てくるはずだ。しかし、そこに載っていた名義人と、封筒の書式が一致しない。まるで別の世界の書類のようだ。
登記簿に載っているのは「高橋進」という人物。だがその人に依頼の意志がある証拠はどこにもない。どうしてこんな曖昧な書類が僕の机に?
名探偵コナンならこの時点で「犯人はあのときすでに……」とか言い出すだろうけど、僕はただの司法書士である。
実在する土地の謄本の謎
念のため、市役所にも足を運んでみた。あの住所には空き家通知も届いておらず、水道も最近まで使われていた形跡がある。
謄本上の所有者、高橋氏に連絡を取ろうとするが、電話番号も古く、つながらなかった。まるで存在だけが切り取られたような人物だ。
ここで僕は、書類の端に薄く写った朱肉の跡に目をとめた。まるで捨印だけを押して逃げたような、そんな印象だった。
サトウさんの冷静な観察
字の癖と封筒の折れ目
「この筆跡、少し前にうちに来た相続の相談者と似てますね」とサトウさんは言った。言われてみれば、あの時も不自然なほど無口な男性が、黙って資料を置いて帰った。
封筒の折れ目を彼女がそっと開くと、中にもう一枚、小さなメモが貼りついていた。「、名前は出せません」それだけだった。
「名前を書かないってのは、自分で責任を取らないってことですよ」と彼女が言った。冷静だけど、的を射ている。
筆跡と印影が語るもの
筆跡鑑定はできないが、なんとなく気になる点があった。角の丸み、力の入れ具合、そして朱肉のにじみ方。それらを並べると、先月のある書類とほぼ一致した。
僕は資料棚を掘り返し、同じ書体の「高橋進」の委任状を見つけた。そのときの依頼は、登記の抹消だった。
誰かが、何かを隠そうとしている――その気配が、じわじわと迫ってきた。
足で稼ぐ司法書士の地味な調査
法務局の沈黙と市役所の無関心
僕が法務局でこの物件の過去の履歴を洗っていると、ふと、20年前にさかのぼる相続登記が目に留まった。依頼人の名前はすべて同じ「高橋進」。だが、印影が毎回違っていた。
市役所では、同姓同名の高橋進が三人登録されていた。しかも、すべて同じ番地で。これは偶然か、それとも意図的な操作か?
やれやれ、、、一人の依頼もまともに処理できないなんて、情けない話だ。
隠された共有者の存在
よく見れば、数年前に登記されていた共有持分が一人だけ抹消されている。不自然な時期、不自然な方法。そして、それが今回の依頼と似た筆跡だった。
本来そこに名を連ねるべき人物が、何らかの理由で消された。その名を明かさないことで、今も存在を保とうとしているのかもしれない。
事件とは呼べない。でも、真実が書類の行間に潜んでいる。そう確信した。
突如現れた訪問者
無言の男と白手袋
事務所の扉がそっと開いた。現れたのは、やはりあの時の無口な男だった。白手袋をはめて、無言で書類を机の上に差し出した。
それは、正式な委任状だった。今度はちゃんと署名があり、印鑑も押されていた。
「これでお願いします」と一言だけ残して、男は再び静かに去っていった。
名乗らずに差し出された鍵
封筒の中には、古びた一軒家の鍵も入っていた。どうやら、その家の登記名義変更が目的だったようだ。
なぜこんなに回りくどい方法をとったのか、最後まで彼は語らなかった。だが、ようやく全ての書類が揃ったことだけは確かだった。
司法書士の仕事は、時として名前のない物語に関わることでもある。
封筒の中に潜んでいた真実
裏書きの消えた委任状
あらためて見直すと、最初の封筒の中には、消しゴムで消したような跡があった。どうやら一度は名前を書いていたが、何かの理由で消したらしい。
もしかすると、名前を出すこと自体が命に関わるのかもしれない――そんな妄想すら浮かんでしまう。
だが、真実は書かれていなかった。ただ、受け取った僕が処理することだけが求められていた。
過去の登記との奇妙な一致
最終的に提出された委任状の内容は、過去の抹消案件と極めて酷似していた。恐らく、依頼人は同一人物。もしくは、同じ誰かに頼まれて動いている代理人だろう。
それが正義か悪かはわからない。ただ、目の前の事実はひとつ。登記手続きは法的に問題なく処理された。
まるでキャッツアイが美術品を盗んで返すように、依頼人も静かに痕跡を消していった。
シンドウの推理と苦悩
やれやれ、、、面倒な仕事を引き受けた
事件とも呼べない曖昧な仕事。でも僕にとっては、十分すぎるほどのミステリーだった。しかも、そのほとんどが名前のない書類だけで構成されている。
やれやれ、、、毎回こんな依頼ばかりじゃ身が持たない。けれど、断れないのが司法書士の性というものだ。
きっちり完了させて初めて、仕事をしたと言える。名前がなくても。
それでも逃げられない職責
名前がないからといって、責任がないわけではない。むしろ逆だ。名前のない責任ほど、重いものはない。
僕は依頼を受けた。名前のない依頼人のために。だから、その事実は僕の中に刻まれる。
そうしてまた一つ、誰にも語られることのない物語が終わった。
結末は静かに訪れる
名前を伏せたままの解決
最終的に、登記申請は受理された。誰の目にも触れず、静かに完了した。依頼人の名前は、結局明かされることはなかった。
でも、不思議と後味は悪くなかった。何かが片付いたという実感だけが残った。
日常が少しだけズレる。それが、僕たち司法書士にとっての「非日常」なのだ。
記録に残らない依頼の結末
その書類は、所内の棚の一番奥にしまわれた。サトウさんが「気持ち悪いから早く終わってよかったです」と言って、コーヒーを煎れてくれた。
「名前を書かないって、サザエさんでいうと波平のいない磯野家みたいなものですね」なんて言いながら、彼女は一人でクスリと笑った。
やれやれ、、、僕はまた、次の依頼を待つことにした。