届いてほしい気持ちは、書留で送れたらいいのに

届いてほしい気持ちは、書留で送れたらいいのに

誰かに思いを届けたいと思う日はある

仕事に追われていると、自分の気持ちを誰かに伝えたいと思う瞬間が、ふと訪れる。登記のチェックをしていた手を止めて、事務所の窓の外を見ていると、なぜか昔少しだけ心が動いた人のことを思い出したりする。でも、何かを伝えるには理由が必要で、タイミングも勇気も要る。ただ「元気にしてる?」の一言すら、なぜか言えない。そんな日は、心の中で勝手に「手紙」を書いている。

独りでいると、ふと誰かの顔を思い出す

夕方の事務所に一人で残っていると、誰にともなく「最近どうしてるかな」と考えてしまう。大して親しいわけでもなかったのに、優しく声をかけてくれたコンビニの店員さんの笑顔や、同窓会で隣に座った女性の無邪気な話し方が蘇ってくる。あの時は何も起きなかった。でも、少しだけ心が揺れた記憶は、こうして何年経ってもふいに浮かんでくる。

忙しい日常に紛れてしまう小さな気持ち

あのとき感じた気持ちは、本当に些細なもので、仕事が忙しいとすぐにどこかへ行ってしまう。でも、疲れている夜や、静かな朝にふとよみがえる。まるで消印のない手紙のように、時間が経っても宛先に向かって漂っている気がする。それを、誰かにちゃんと渡せたらいいのに、と思ってしまう。

「元気?」って聞きたいだけなのに言えない

たった一言、「元気?」って言いたいだけなのに、それが難しい。連絡先は知っている。でも、それだけでは足りない。変に思われたくない、重たくなりたくない、そんな言い訳を並べて、自分を納得させてしまう。だけど本当は、ただ誰かと心をつなぎたいだけなのかもしれない。

思い出す相手に既読がつくわけでもない

LINEやSNSでメッセージを送れば、既読がつく。でも、思いだけでつながっている相手には、何の反応もない。ただこちらが勝手に思い出して、勝手に懐かしくなって、勝手にまた忘れていくだけ。でもその反復が、孤独な生活のなかでは妙に心を落ち着かせてくれる不思議なリズムになっている。

書留みたいに、確実に届く方法があればいいのに

司法書士として、書類を送るときには気をつかう。大事な契約書や登記に必要な原本なんかは、必ず書留にする。万が一届かなかったら大ごとだからだ。でも、心の中の「思い」はそうはいかない。送りたくても、途中でどこかに消えてしまうし、届いたとしても受け取ってもらえる保証はない。

気持ちは目に見えないし、受け取り拒否もある

感情は形がない。言葉にしても伝わらないことがあるし、伝わったとしても、受け取り側がそれを「いまはいらない」と思えば、それまでだ。配達員が持ち帰ることもできないし、返送もされない。だからこそ、「本当に届けていいのか?」と自問してしまう。そのうち、何も出せなくなってしまう。

サインをもらえる安心感が欲しくなる瞬間

書留で送ると、相手が受け取ったという証拠が残る。あの「受領印」というやつだ。仕事ではそれが当たり前なのに、私生活ではそんな安心感がない。気持ちを伝えても、相手がどう感じたのか、わからないまま。不安が残る。その不安が怖くて、気持ちを押し殺してしまう。でも、本当はただ、誰かにサインをもらいたいだけなのかもしれない。「わかるよ」って。

メールもLINEも不確かすぎて、苦しい

既読になっても返信がない。返信があっても、社交辞令っぽくて読み取れない。そんなやり取りを何度か経験すると、もう送ること自体に気力がなくなる。「どうせ伝わらない」と決めつけてしまう。でも、そんなふうに自分を抑えてばかりいると、心が少しずつ乾いていくような気がする。

司法書士という仕事は、感情を閉じ込めがちだ

この仕事をしていると、感情を排除するクセがついてしまう。冷静さ、正確さ、無駄を排除した段取り。日々の業務は、心を入れすぎると逆に支障が出る。だから、感情を出さないのが「良い仕事」の条件になってくる。でも、人間って本来そういうふうにはできていない。

書類は送るが、気持ちは送らない

毎日、登記申請や委任状を扱っていて、「書くこと」「送ること」には慣れている。でも、それは形式の世界であって、気持ちは含まれていない。効率を求めるあまり、自分の感情や想いは「無駄なもの」として処理されてしまう。結果、プライベートでも言葉を選びすぎてしまって、結局何も伝えられなくなっていく。

正確さが求められるほど、感情は要らなくなる

数字や住所のミスは許されない。だからこそ、気を張る。疲れても気を抜けない。でも、そんな毎日を続けていると、「自分が何を感じているか」すら分からなくなってくる。いつしか、ただ淡々と処理をこなすだけの存在になっていて、それが怖くなる日がある。

仕事がうまくいくほど、孤独も増える皮肉

仕事だけは順調。でも、気づけば年をとっていて、友達は減り、恋人もできず、話し相手すらいない。誰にも迷惑をかけず、ミスもなく生きているけど、それが幸せかと言われると、答えに詰まる。完璧な仕事は、必ずしも心を満たしてくれない。

感情を出す場所がないという現実

感情を出すには「場」がいる。でも、この仕事にはそういう場がほとんどない。愚痴を言う暇もなく、誰かに相談するわけでもなく、ただ一人で抱えてしまう。事務員さんにも気を遣ってしまって、本音は言えない。結果、感情は行き場を失って、夜の空気に溶けていくだけになる。

「真面目にやってて偉いね」って言われるたびに

「あなたは真面目ですね」と言われることがある。それはたぶん、褒め言葉なんだと思う。でも、私はそれを聞くたびに「他に言うことないんだろうな」と思ってしまう。頑張っていることは確かだけど、それが「偉い」かどうかは、自分でもよく分からない。ただ、誰かに認めてほしいだけなのかもしれない。

その裏の孤独には誰も気づかない

表面上はきちんと見える。事務所も整っていて、対応も丁寧。でも、その裏側でどれだけ孤独を抱えているかなんて、誰も知らない。知ってもらおうともしなくなる。弱みを見せたくないのではなく、見せても響かない気がしてしまうから。

ちゃんと届いてる?って自分に問いかけてしまう

仕事の成果は「届いたかどうか」で判断される。でも、自分の人間としての想いは、届いているのか分からない。誰かに優しくしたとき、それは届いているのか?感謝されないと、意味がないのか?そんな問いが頭をよぎって、自分の存在の輪郭すらあやふやになってくる。

やさしさを渡す人が、減っていく感覚

昔はもっと、無駄な会話が多かった。ありがとう、とか、大丈夫?とか、言い合える瞬間があった。でも今は、効率や機能性ばかりが求められて、やさしさが後回しになる。そんな社会の流れに逆らえず、自分もまた、やさしさを後回しにしてしまっている。

それでも今日も、書留のように誠実に

それでも、私は書留のように誠実でありたいと思う。届くか分からなくても、気持ちはきちんとした形で送りたい。誰にも気づかれなくても、自分の中で「ちゃんとやれた」と思えることだけは大事にしたい。人とのつながりは不確かだけど、それでも出し続けることに意味があると信じたい。

届くかどうかわからなくても、思いは出し続ける

仕事のように「確実に届く」保証がなくても、人との関係では出すことに意味がある。返事が来なくても、伝えたことで何かが変わるかもしれない。感謝も共感も、返ってこないことはある。でも、それを恐れていたら、何も始まらない。だから、書留のような気持ちで、今日もまた思いを送ってみる。

仕事も人生も、結果より「出すこと」のほうが大事なときもある

成果や評価ばかりを追いかけると、心が擦り減ってしまう。とくにこの仕事では、そうなりがちだ。でも、本当に大切なのは、やるべきことを「どういう気持ちでやるか」かもしれない。自分なりに誠実に、丁寧に、思いを込めて届ける。それが一番の報酬になる。

確かに自分は存在していた、という証明を残すために

たとえ忘れられても、たとえ気づかれなくても、自分はここにいた。そう思えるような日々を積み重ねたい。人とのつながりが薄くても、誠実に生きた記録を残す。それが、自分の人生を肯定する唯一の手段かもしれない。

優しさを送り続ける練習をしているのかもしれない

毎日、少しずつでも人にやさしくする。自分にやさしくする。見返りは求めない。そうやって、書留のように確かに何かを送り続ける練習をしているのかもしれない。寂しさを抱えながらも、人とつながることを諦めずに。

報われなくても、意味がないとは思わない

思いが伝わらなかったとしても、それが無意味だったとは思わない。それを出そうとした自分の気持ちは、本物だった。その事実があれば、きっとまた誰かを思い出す勇気になる。

今日の自分が誰かの安心になれたら、それでいい

届いているかはわからない。でも、今日一日を丁寧に生きることで、誰かが少しでも安心してくれるなら、それでいい。誰かの心の中に、自分の優しさがそっと残ることを願って。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。