司法書士は恋も登記も途中で止まる
朝、デスクに座った瞬間から違和感があった。依頼のメールが珍しく夜中に届いていたのだ。「相続登記の相談です」と書かれたそれは、内容こそ平凡だが、どこか匂う。 忙しい日は嫌いだ。だが、暇な日も不安になる。独身の司法書士にとって、心を埋めるのは業務とテレビの再放送ぐらいなのだから。
「サトウさん、これ、ちょっと読んでくれる?」と声をかけると、彼女は眉ひとつ動かさずにうなずいた。「はい。で、不自然な点は?」
一通の登記相談メールから始まった
件名は簡素だったが、添付された資料にはやたらと「丁寧すぎる情報」が並んでいた。印鑑証明、遺産分割協議書、戸籍謄本——。 正規の登記に必要な書類は揃っている。だが揃いすぎているのだ。
依頼人の名前は「フカミ」。地方の地目変更があった土地に関する登記だった。「なんか、この名前、、、どこかで見たような?」 そう呟くと、サトウさんがぴしゃり。「昔の女性の名前じゃなければいいですけどね」
内容は至って単純な相続登記のはずだった
依頼内容は、父親名義の土地を長男名義に変更したいというもの。 実際のところ、そうしたケースは日常茶飯事だ。ただ、協議書に書かれた「長女の同意」が不自然だった。筆跡が微妙に異なる。 おまけに添付されていた印鑑証明は、期限ギリギリの発行日になっていた。
「フカミさんは明日、事務所に来るって言ってましたよね?」 「うん。怪しいけど確かめないとな。やれやれ、、、サザエさんの三河屋くらい突然来るなあの人」
怪しいのは依頼者ではなく書類だった
フカミと名乗る男は、穏やかな口調で応対した。だが、語る内容と資料の記載に微妙なズレがあった。 「お姉さんは快く同意してくれました」と語る割に、その姉の筆跡が協議書の中で不自然に感じられる。 サトウさんは手元のスキャナで協議書を読み込み、AI筆跡判定ツールにかけていた。
「同一人物とは言い切れませんね。書類自体は通せるレベルですが、、、匂います」 「うーん、、、司法書士って名探偵じゃないんだけどな」
偽造された印鑑証明の違和感
印鑑証明の発行地が、協議書に書かれた住所とは違っていた。 一見して見落としがちだが、同一人物のものであるならば一致しているはずだ。 この食い違いを突けば、依頼人の“やましさ”が露わになる可能性がある。
「この人、姉の名前勝手に使ってません?」とサトウさんが鋭く刺す。 「え、怖。いや、当たりすぎでしょそれ」と私。
もう一つの未了案件
ちょうどその頃、もう一通の封筒が届いていた。差出人は「ナカムラユカ」——懐かしい名前だ。 十数年前、地元の球場で一緒にビールを飲んだ記憶がある。彼女は今、離婚調停中らしい。 中に入っていたのは、相談書と、「昔、あなたに言えなかったことがあります」という一筆だった。
元彼女からの会いたい通知書
気持ちの整理がつかないまま、私はその夜コンビニの駐車場でタバコを吸った。 結局、恋愛も未了登記と一緒で、書類がなければ進まない。証明ができないのだ。 ただ、恋に必要なのは証明じゃなくて、勇気かもしれない。
「シンドウさん、顔赤いですよ。暑さですか、それとも情けなさですか?」 「……後者かもな」
調査は事務所を出てからが本番
翌日、依頼書に書かれていた住所へ向かった。そこには高齢の女性が一人。 「ええ?そんな書類、出した覚えないよ」 やはり予感は的中だった。協議書は捏造だったのだ。
登記簿謄本よりも古い関係者の記憶
女性は昔気質で口も硬かったが、「弟が勝手なことをしているのは知っていた」とぽつり。 戸籍を改めて追い、登記の正当性を立証するには、第三者の証言も必要だ。 やれやれ、、、紙より記憶のほうが信用できる時があるなんてな。
トリックは書類の順番にあった
協議書が最後に差し替えられていたことが判明した。 日付の押印と印鑑証明の発行日が逆転していた。つまり、証明のあとに協議が行われたフリをしていたのだ。 「サトウさん、これは登記不可。理由つけて突き返して」
意外な人物が二重提出していた
なんと、同じような協議書がもう一通、別の司法書士にも送られていた。 その司法書士から照会が入り、事実が裏付けられた。まさに登記界のルパン三世だ。 やれやれ、、、と思わず呟きながら、私はサインをペン先で止めた。
恋の方は未完のまま
結局、ナカムラユカには返事を出さなかった。過去は過去のままが美しい時もある。 今はサトウさんの無言の視線がちょっと怖い。 いや、たぶんそれは錯覚じゃない。
書類は完了心の整理は未了
登記の処理は完了した。だが、胸の内に残るもやもやは晴れなかった。 「これで一件落着ですね」とサトウさん。 「うん、まあな。でも俺の人生はずっと未完のままかもな」
サトウさんの言葉はいつも冷たいけれど
「じゃあ、次の事件にでも期待しますか。シンドウさん、推理だけは得意ですもんね」 皮肉か本気かわからないその言葉に、少しだけ笑ってしまった。 やれやれ、、、また面倒な日々が始まりそうだ。