誰もいない土曜日の午後、やけに耳が敏感になる
土曜日の午後、事務所の中はしんと静まり返っている。平日はあれだけ鳴っていた電話も止まり、ドアの開閉音もない。事務員は「今日は子どもの運動会なので」と前々から休みを取っていたし、急ぎの案件もとくにない。けれどこの“何も起きない時間”が、どうにも落ち着かない。静けさが好きだったはずなのに、今は耳の奥で自分の鼓動が聞こえるほどの無音が、逆に不安を連れてくる。
平日の喧騒との落差に、逆に落ち着かない自分がいる
朝からメールに追われ、次のアポに頭を切り替え、電話の合間に書類を確認する――そんな毎日に慣れきってしまうと、音がないことに耐えられなくなる。誰も訪れない事務所で、パソコンのファンの音だけが鳴っている空間に一人。こんなに“静か”が刺さる日が来るとは思わなかった。音がないって、こんなに心のざわつきが際立つんだと気づいた。
「あれ、今日って祝日?」と錯覚するほどの静けさ
あまりに誰も通らない外の道路に、「もしかして今日は祝日か?」とカレンダーを見直す始末。静けさが街全体を包んでいる。こういうとき、地方で司法書士をやっていることの現実を突きつけられる気がする。都市部なら誰かしらの動きがあるのだろうか。田舎では、静かな日はとことん静かで、自分が世界から取り残されたような錯覚に陥る。
スマホも鳴らない、郵便も来ない、電話も来ない
ポケットのスマホは静かなまま。LINEも来ない。通知がないことに慣れすぎたのか、それとも本当に自分が社会からフェードアウトしているのか。郵便受けを開けてもチラシだけ、事務所の電話は留守電がついたまま。こんな日は、「あぁ、本当に独りなんだな」と妙にしみじみしてしまう。
働いていないのに疲れているという矛盾
今日は仕事をしていないのに、妙に体がだるい。これはきっと“心の疲れ”なのだろう。表向きは休みでも、脳のどこかでずっと何かを考えている。やり残した登記のこと、まだ届かない謄本のこと、クライアントの顔色……そんなものが頭の隅でぐるぐると回っている。結局、司法書士って仕事は心が休まらない職業なのかもしれない。
静かな日は、心のざわつきが浮かび上がる
普段は騒がしさの中に紛れている不安が、こういう静かな日にだけ顔を出す。例えば「この仕事をこのまま続けていていいのか」とか、「老後、どうするんだ」とか。大きな音があるときは聞こえない心の声が、静寂という舞台に浮かび上がってくるようだ。それは逃げようがない、真正面からの“自分との対話”だ。
「休める=楽」じゃない、という現実
土曜=休み=リラックス、という構図が成り立たないことに気づいて久しい。誰とも話さず、予定もない土曜日は、かえってエネルギーを奪われる。ひとり分の食事を作る気にもなれず、インスタントの味噌汁とコンビニのおにぎりで済ませてしまう。そうして、また罪悪感がじわじわと押し寄せてくる。
土曜日が怖いと感じるようになったのはいつからか
若いころは、土曜日といえば自由の象徴だった。友達と遊びに行ったり、誰かと飲みに行ったり。けれど今は違う。予定がない土曜日は、何をすればいいか分からず、その空白が怖い。司法書士という仕事は、意外にも“人と話すことで支えられている”のかもしれないと気づく。
事務員は家族と出かけ、自分は一人事務所で残務処理
今朝、事務員がにこやかに「じゃあ行ってきます」と帰っていった。子どもの学校行事らしい。その笑顔がやけにまぶしくて、しばらくその場から動けなかった。ふと、10年前の自分を思い出す。まだ両親が元気で、帰れば誰かがいた頃のことを。
「家族サービス」という言葉の響きがまぶしい
「この週末は家族サービスですから」という言葉を聞くたびに、何か自分には関係ない世界の言葉のように感じてしまう。そんなに大変なら休んだらいいのに、と思いながら、どこかで“うらやましい”とも思っている。土曜日に誰かに必要とされるというのは、それだけで幸せなことなのかもしれない。
何年も前に消えた“家庭”という概念
結婚もしていない、自分の子どももいない。家庭というものに、昔は少し憧れもあったが、今ではまるで他人事のようだ。仕事が忙しいから、と言い訳をしていたが、本当は何かを築く勇気がなかっただけなのかもしれない。気づいたら、家庭というものは遠く手の届かない場所にあった。
ひとりぶんのコーヒーの味はやけに苦い
昼下がりに淹れたコーヒーは、なぜか苦く感じた。豆が古いのか、それとも心がすさんでいるのか。誰かと「ちょっと休憩」と飲むコーヒーは、こんなに味がしないものじゃなかった。たった一杯の飲み物で、こんなにも孤独を感じるとは思わなかった。
静けさに身をまかせることも、悪くない……と信じたい
こんなふうに、静かな土曜日をひとりで過ごしていると、否が応でも自分と向き合う時間になる。はじめはしんどいけれど、慣れてくると、少しずつ“まあこれも悪くないか”と思えるようになる。忙しさに流されていたときには見えなかった景色が、静寂の中ではゆっくり見えてくる。
余白のある時間にこそ、本音がこぼれる
人と接しているときは、どうしても“こうあるべき”という自分を演じてしまう。けれど、誰もいない時間には、本音がぽろりとこぼれる。「もう少し楽になりたい」とか、「このままでいいのか」とか。その声に気づけるだけで、たぶん意味がある。静かな時間が、それを聞かせてくれる。
焦って動いたって、状況は大して変わらない
仕事でも人生でも、“動いていないと不安”になる時期はあった。でも今は、無理に動かなくてもいいと思えるようになった。たとえ変化がなくても、自分なりに一日を終えることに意味を見いだせるようになってきた。静かな土曜日も、そう思えるための一歩だ。
たまには「今日は何もしない」と決めてもいい
「何もしない」ことに罪悪感を覚えるタイプの人間だった。でも最近は、それが一番難しくて、一番贅沢なことだと思うようになった。土曜日の静けさを味わう。誰に必要とされなくても、自分のために過ごす時間があってもいい。そう思えるようになった自分を、少しだけ誇らしく思う。