相談室に届いた奇妙な委任状
朝、事務所に出勤すると、机の上に一通の封筒が置かれていた。差出人の記載はなく、表には「至急」とだけ殴り書きされている。開封してみると、そこには成年後見人の選任を依頼する旨の委任状が入っていた。
しかし、問題はその委任状にあった。「本人署名」がかすれており、印鑑も薄い。どう見ても不自然だった。誰が何のためにこのような不完全な書類を送ってきたのか。朝から妙な空気が流れる。
差出人不明の封筒と消された印影
「これ、明らかに修正跡がありますね」サトウさんが印影部分をルーペで見ながら言った。たしかに、誰かが朱肉を上からこすり取ったような跡がある。依頼者が本当に存在するのかも怪しい。
中には空き家の不動産情報が一枚、なぜか同封されていた。そこに記載された住所は、シンドウが子どもの頃に通学路として通った古びた一軒家だった。嫌な予感がした。
サトウさんの塩対応と的確な分析
「暇なんですか?それとも怖いもの見たさ?」と塩対応をかましつつも、彼女は速やかに地図と登記情報を照合していた。仕事は早い。「この委任状、形式的には成年後見だけど、どうも裏がありますね」
それが彼女の結論だった。表向きの目的とは裏腹に、何か別の意図があることは明らかだった。僕の頭の中で、あの古家の門扉がギィと軋む音が蘇った。
成年後見か相続か 曖昧な書類の正体
登記簿上では、所有者は10年前に死亡したと記録されている。しかし、相続登記はされていないまま放置されていた。成年後見とは一体誰のためのものなのか?
その空白の期間と書類の目的が一致しない。あたかも何かを隠すために成年後見を“利用”しようとしているかのようだった。形式上は合法でも、内実はまるで違う。
法定代理人という言葉の違和感
「この書き方、ちょっと変ですね。まるで被後見人がもういない前提で書かれてます」サトウさんが言った。確かに、“本人”が生きているとはどこにも明記されていない。まるで遺産整理の延長線にあるような雰囲気だった。
それに、添付された戸籍には出生の記録があるだけで、死亡の記載がなかった。つまり、生死不明ということか。これはますます厄介だ。
遺産目録にない“空き家”の存在
さらに調べると、被後見人とされる人物の名義で別の不動産が登記されていることが判明した。それが例の古家だった。だが、その物件は遺産目録には一切記載されていなかった。
おかしい。もしこれが故意の記載漏れなら、何か重大な利害がそこにある。そう直感したシンドウは、現地調査を決断する。
元野球部の記憶と登記簿のにらめっこ
登記簿を手にしながら、少年時代の記憶が蘇る。あの古家の前を通るたびに犬に吠えられて逃げたっけ。あの犬はもういないだろうが、何か別の“影”がまだあそこにいる気がした。
「やれやれ、、、野球部時代より体動かすわけでもないのに疲れる仕事だ」そう愚痴をこぼしながらも、足は自然と現地に向かっていた。
所有者欄に踊る見知らぬ名前
現地に着いて再確認した登記簿には、見知らぬ名前が数年前に一度だけ仮登記された形跡があった。だがそれは抹消されている。仮登記、抹消、再申請——何者かがこの物件を“動かそう”とした跡だった。
その仮登記の申請人の住所を確認すると、先ほどの委任状に記載されていた“後見人”と同じだった。偶然ではない。
町の司法書士が踏み込んだ家
玄関の鍵はかかっていたが、裏口は開いていた。中には埃だらけの家具と、朽ちたカレンダーがぶら下がっている。まるで時間が止まったような家だった。
奥の書斎に入ると、棚の上に封筒があった。その中に、再度後見人選任を求める“本物の”委任状があった。そして署名には、筆跡が委任状のそれとまったく異なる名前が記されていた。
カーテンの隙間と裏口の足跡
足元には、泥のついた靴跡が微かに残っていた。誰かがつい最近までここを訪れていた証拠だ。しかも、封筒の端が破れていたのは、何かを抜き取った形跡だった。
つまり、“偽の委任状”は、誰かがこの家の資料から本物を持ち去ったうえで作成した可能性が高い。犯人は、後見人になりすまして名義変更を狙っていたのだ。
サトウさんの推理と過去の過誤
戻ってすぐに報告書をまとめると、サトウさんは無言でそれに目を通し、ひとこと「雑ですね」と言った。だが、視線は鋭かった。彼女の読みは、次のページに記された“押印者”に注がれていた。
「これ、7年前に相続放棄した人と同じ名前ですよ。筆跡が一致してます」なんということだ。過去に放棄した者が、今になって隠し資産を狙ったというわけだ。
後見制度を悪用した家族の偽装
後見制度を利用すれば、本人確認のプロセスを“代理”に置き換えられる。そこを突いて、家族の一人が偽名で委任状を作成し、空き家を手に入れようとしたのだ。
動機は明確、手口は巧妙。しかし、司法書士の仕事は書類の“綻び”を見逃さないことだった。だからこそ、こうして真実にたどり着けた。
犯人は近くにいた
結局、差出人は7年前に相談に来た中年の男性で、被後見人の甥にあたる人物だった。彼は家族間の遺産争いに嫌気がさし、一度は放棄したものの、後に“まだある”と聞かされて翻意したのだという。
「一度放棄したのに、また狙うなんてね」サトウさんの口調は、冷ややかだった。だが、僕はなんだか少しだけその男の気持ちがわかってしまった。
後見と相続をすり替えた狡猾な手口
法の隙間をついたようなやり方だったが、それでも結末はひとつ。偽造は偽造、詐欺は詐欺だ。名義は動かされることなく、家は本来のまま静かに佇んでいた。
書類には、正直であることしか許されない。それが、この仕事の重さでもある。
法の下に戻された名義
行政へ報告を済ませたあと、物件は正式に家庭裁判所の管理下へ移された。名義の曖昧さは解消され、空き家は再び法の手に戻された。
どこかで見ていたような黒猫が、門扉の上からこちらを見下ろしていた。まるでキャッツアイの一場面のように、謎の幕引きを祝っているかのようだった。
空き家は今 静かに朝日を受けていた
翌朝、もう一度だけ現地に立ち寄った。あの古家は、少しだけ風通しが良くなっていた。僕たちが踏み込んだことで、長年積もっていた“よどみ”がどこかに抜けたのかもしれない。
「これで、ようやく休めるだろうな」そう呟いたとき、後ろでカメラのシャッター音が鳴った。サトウさんが、空き家の写真を一枚だけ撮っていた。
いつもの事務所 いつもの愚痴
事務所に戻ると、すでに次の相談予約が入っていた。相続、後見、遺言。どれも似たような顔ぶれだが、書類の中にある人生はそれぞれ違う。
「やれやれ、、、また後見か」つい口をついて出た愚痴に、サトウさんは何も返さなかった。ただ、黙って次の依頼資料を差し出してきた。
サトウさんは無言で書類を差し出した
「また塩対応かよ」そう心の中でぼやきつつも、彼女の差し出したファイルを手に取る。ページの端に、ふと気になる名前を見つけた。
そうして僕の今日も、また小さな謎から始まるのだった。