玄関の鍵は開くのに、心の鍵が開かない夜

玄関の鍵は開くのに、心の鍵が開かない夜

鍵を開けるたびに感じる、どこかの閉ざされた感覚

仕事を終えて帰宅し、玄関の鍵を開ける。この動作はもう何千回と繰り返してきたけれど、最近は鍵が開いた瞬間、どこかモヤモヤした気持ちが胸の奥で広がる。物理的には確かに「帰宅」しているはずなのに、自分の心はどこか別の場所に置き去りにされているような、そんな感覚に襲われるのだ。暖房の効いた室内に入っても、気持ちだけが外気の冷たさに取り残されたまま。日々の業務に追われ、他人の権利や義務ばかりを整えているうちに、自分の心の取扱説明書を紛失してしまった気がする。

誰もいない家なのに、誰かに見透かされているようで

帰ってきた瞬間、誰もいないはずの家の空気がやけに重たく感じる。電気をつける前の一瞬の闇の中で、自分が誰かに見られているような、監視されているような錯覚に陥ることがある。もちろんそんなはずはないのだけれど、そう感じてしまうのは、おそらく自分自身が自分の内面を見透かしているからだ。普段は冷静に対応している相談者の一言が、実は胸に刺さっていたこともある。「家族がいないから手続きが楽でね」と笑って話す相続人に、何も返せなかった自分を思い出す。自分も、いつかそうなるのかもしれないという恐れが、ずっと心にへばりついている。

鍵の回る音だけがやけに響く夜

静まり返った玄関で、鍵が回る「カチャ」という音がやけに大きく響く。テレビもラジオもつけていない夜、鍵の音だけが空間を切り裂くように聞こえると、なぜか心がぎゅっと締め付けられる。こんなにも日常的な音に、こんなにも孤独を感じるなんて思いもしなかった。大学を出て、司法書士になって、一人でやってきたことに誇りはある。でも、誰かに迎えられることのない日々が続くと、「これで良かったのか」と自問自答してしまう。鍵は開くけれど、心が閉じたままなのが分かってしまうのだ。

「ただいま」と言わない習慣が当たり前になった

「ただいま」と声に出さなくなって、どれくらい経つだろうか。誰もいないのだから言う必要もないし、声に出したところで返事があるわけでもない。だけど、ふとした瞬間に「ああ、自分はもう『ただいま』を言わない人間になってしまったんだ」と気づくと、少しだけ寂しい気持ちになる。昔、実家で母に言っていた「ただいま」が、こんなにも温かいものだったと、今さらながら思い出す。独り暮らし歴が長くなるにつれ、言葉すらも封印してしまった自分が、どんどん無表情になっていくのが怖い。

書類の山よりも、自分の気持ちの方が整理できない

登記書類や契約書は、順を追って処理すれば、きちんと片づく。ミスを防ぐためにチェックリストも使っているし、締切も守るよう努めている。それに比べて、自分の気持ちはどうだろう。整理するルールもなければ、期限もわからない。疲れているのか、寂しいのか、ただ空虚なだけなのか、自分でもはっきりしないことが多い。年を取るごとに「よくわからない不安」だけが積もっていくのが、書類よりもよほどやっかいだ。

机の上は片付いても、心の中はぐちゃぐちゃのまま

事務所の机はそこそこ整っている。ファイルは分類され、依頼書も順番に並んでいる。でも、自分の中はそうじゃない。例えば、ふとした時に、何年も前に断った結婚話を思い出す。あの時、「仕事が忙しいから」と断ったけれど、本当は自信がなかっただけだった。誰かと一緒にいる勇気がなかった。その未練や後悔が、今も片隅に残ったままで、心の整理整頓はまったく終わっていない。机の引き出しみたいに、簡単には片付かないのが感情なのかもしれない。

不動産登記よりも難しい、自分の感情の所在

不動産登記では、「所有権移転」のように名義が明確に記されている。しかし、自分の感情にはそんなラベルがない。怒りなのか、悲しみなのか、寂しさなのか、名前すらつけられないものが胸にずっと残っている。感情の登記簿があったら、自分の気持ちを読み解く手がかりになるのに…と、ふと思う。仕事では「事実」を書面にするけれど、心の中の「気持ち」は書面にできない。だから余計に扱いづらい。

心の鍵を閉めたのは、いつからだったのか

誰かに自分の本音を話すことが怖くなったのは、いつからだったのだろうか。若い頃は、飲み会で冗談を言いながらも本音を語る場面があった気がする。でも今では、「弱みを見せると面倒になる」と思ってしまい、何も語らないことが普通になってしまった。それは防衛本能かもしれないし、単なる癖かもしれない。でも、それが習慣になってしまった今、「心の鍵」を閉めたまま生きている実感がある。

誰かに迷惑をかけないようにと生きてきた結果

「人に迷惑をかけないように」と言われて育ってきた。その教えは正しいし、社会人として必要なことだ。でも、それを守りすぎた結果、自分の感情まで人に見せてはいけないと思い込むようになった。頼られるのは得意でも、頼るのは苦手。何かをお願いするくらいなら、自分で何とかしようとする。その姿勢がいつの間にか「孤立」に変わっていったことに、自分でも気づかなかった。

頼られるのに、頼れない人間になっていた

依頼人からは「先生に頼めば安心」と言われる。それが嬉しくないわけじゃない。でも、そう言われるたびに「自分は弱音を吐けない人間になった」とも感じる。誰かに弱さを見せた瞬間、信頼が壊れてしまうような気がして、いつも背筋を伸ばしている。そのせいで、少しずつ心の扉を閉めていったのかもしれない。いつの間にか、心の内側には「立入禁止」の札がぶら下がっていた。

「ひとりで大丈夫」は、ただの言い訳だったのかも

よく「ひとりでも大丈夫です」と言ってきた。誰にも気を使わず、自分のペースで仕事ができるのは確かに楽だ。でも、それは強がりだったかもしれない。「ひとりで大丈夫」と言い聞かせることで、誰かに近づかれるのを避けていたようにも思う。もし心の鍵を開けるとしたら、それは他人に向けてじゃなくて、自分自身に向けてかもしれない。「本当は誰かと一緒にいたい」と、素直に言えるようになるために。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。