表情は平静 中身はボロボロの日常
司法書士という仕事柄、人前で取り乱すわけにはいきません。笑顔で相談に応じ、冷静に登記を処理し、穏やかに依頼人と会話をする。それがプロとして当たり前だと思ってきました。でも、その裏で、どれだけ自分の中のエネルギーが消耗されているのか、誰にも気づかれないし、誰にも言えません。特に地方の小さな事務所では、誰かに代わってもらうこともできず、毎日が「こなすためだけの業務」になっていきます。
朝起きるだけで全エネルギーを消費する
正直な話、朝起きるのが一番の試練です。目覚ましを止めてから布団を出るまでに、何度も「もう少しだけ」と頭の中で交渉します。そんな朝が続くと、いつのまにか起きること自体が一仕事。元野球部だった頃の「気合いで動け」はもう通用しない体になってしまいました。
気づけばもうこんな時間 それでも仕事は山積み
午前中の一件目の相談を終えると、もうお昼過ぎ。時計を見るたびに時間がすり減っていく感覚に襲われます。でも、その時間の中で減っていかないのが仕事量です。机の上には申請書、郵便物、チェック待ちの書類たち。どこかのタイミングで自分が壊れるなと薄々思いながらも、誰にも頼れずに片付けていく毎日です。
コンビニのコーヒーすら味がしない
唯一の休憩時間に買うコンビニのホットコーヒー。以前は少しの癒しだったその一杯も、最近はただの習慣になってしまいました。味も香りも感じない。ぼんやりした頭のまま、「あれ、さっき飲んだっけ?」なんてこともある始末。疲れが感覚すら鈍らせているのかもしれません。
誰かと話すのが億劫 でも孤独はつらい
相談者との会話は問題ないのに、プライベートになると誰かと話すこと自体が億劫になります。誰かに愚痴をこぼすより、ひとり静かに黙っていたい。でも、黙ってばかりだと、今度は孤独が押し寄せてきて、自分の存在意義すら見失いそうになります。
事務員さんの気遣いが沁みる日もある
唯一の救いは、事務員さんのさりげない気遣い。机に置かれた小さなお菓子や「今日は寒いですね」といった一言が、思いのほか心に響くことがあります。でもその優しさに甘えるのが怖い。頼った瞬間に、自分がもっとだらしなくなってしまいそうな気がするのです。
でも本音までは言えない空気
本当は「もう限界です」と一言、言ってみたい。でも、それを言ってしまったら、何かが崩れてしまいそうな気がする。相手に気を遣わせたくない、という建前の裏には、自分が弱さを認めることへの抵抗があるのかもしれません。だから今日も、笑って「大丈夫です」とだけ言ってしまうのです。
疲れていることに気づかれたくない理由
周囲から「しっかりしてる」と言われることが、いつのまにか自分にとってのプレッシャーになっていました。頼られることは悪い気はしない。でもそれが「疲れていることを悟られてはいけない」という鎖に変わっていく感覚。強がりとも見栄とも言えないその感情が、自分をどんどん追い込んでいくのです。
強がりか見栄か プロとしての意地か
司法書士としての「見せ方」は意識しているつもりです。お客様の信頼が何より大切ですから。でも、それが過剰な強がりになっている気もします。体調が悪くても「元気そうに見えるようにしなきゃ」と無理をする。プロとしての意地の裏にあるのは、誰かに迷惑をかけたくないという古い思考かもしれません。
「大丈夫です」が口癖になった瞬間
何か聞かれるたびに、「大丈夫です」「問題ありません」と返してしまう。気づけば、それが口癖になっていました。でもその「大丈夫」って、どこまで本当なんでしょうか。自分自身に嘘をつき続けているだけかもしれないと思うと、少しだけ悲しくなります。
元野球部の変な精神論が抜けない
高校時代の野球部で叩き込まれた「気合い」「根性」「弱音厳禁」の精神が、今もどこかに残っています。それが今では足枷になっているのかもしれません。疲れていると認めることすら「甘え」と思ってしまうのは、あの時代の影響かもしれないなと、たまに苦笑いしながら思い出します。
頼ることに抵抗がある悲しき性分
「人に頼るのが苦手だね」とよく言われます。でもそれって、本当に「性格」なんでしょうか。単に、人に断られたり、期待を裏切られたりするのが怖いだけなのかもしれません。だったら最初から自分でやった方が早いし、心も疲れない。そんな風に思い込んできた結果、今のこの孤独に行き着いている気がします。
「ひとりでやった方が早い」と思い込んでしまう
一度仕事を頼んでうまくいかなかった経験があると、もう自分でやろうと思ってしまうものです。私も過去に、外注先に任せた登記が期日ギリギリになって冷や汗をかいたことがありました。それ以来、手間がかかっても最初から最後まで自分でやる癖がついてしまいました。でもその代償は、自分の時間と心の余裕でした。
本当はただ、断られるのが怖いだけ
誰かにお願いして「できません」と言われるのが、地味にダメージになるタイプです。期待して、頼って、断られたときの虚無感が苦手。だから最初から頼らない。そうやって自分を守ってきたけど、それって本当に守れてたのか。今となっては、ただ疲れを溜め込む結果にしかなっていないのかもしれません。
それでも明日も仕事はやってくる
疲れていても、仕事は待ってくれません。依頼人がいる限り、登記は発生し、手続きは続いていきます。逃げ出したくなることもあるけれど、それでも毎日、机の前に座る自分がいる。その理由は、きっと自分なりの「意味」があるからなんだと思います。
辞めたくても辞められない理由がある
この仕事を続けているのは、生活のためでもあるけれど、それ以上に「必要とされる場がある」という感覚があるからかもしれません。誰かが「助かりました」と頭を下げてくれる。それが月に一度でもあるなら、続けてよかったと思える。たとえそれが、何十件の疲れの上に成り立つものであっても。
依頼者の感謝が唯一の救い
以前、相続登記を急ぎで仕上げたとき、「本当に助かりました」と涙ぐんで感謝されたことがありました。あの瞬間だけは、疲れが報われた気がしました。その人のために頑張れたと思えたことが、しばらくの間、自分の支えになったのを覚えています。
この地域の人のためにという小さな使命感
都会とは違い、地方では司法書士の数も限られています。自分がいなければ誰がやるのか、と思う場面も少なくありません。その責任感が、逃げたい気持ちを押しとどめてくれています。使命感と呼ぶには少し照れくさいですが、誰かの役に立てていると思えることが、今の自分を支えているのかもしれません。
せめて同業の誰かと弱音を吐き合えたら
この業界は、意外と孤独です。同じような状況で頑張っている司法書士と話す機会があれば、どれだけ救われるだろうと思います。愚痴でもいい、弱音でもいい。同じ立場でしかわからない疲れを共有できる場があれば、少しは前向きになれる気がするのです。
共感だけで救われる夜もある
「わかるよ、その気持ち」たった一言でも、言ってくれる人がいるだけで、安心できます。アドバイスなんていらない。ただ、共感してくれるだけでいい。疲れをため込んでいる人にとって、それは何よりの癒しになると、自分自身がよくわかっています。
言葉にすることで少しだけ軽くなる疲れ
こうして文章にしてみるだけでも、ほんの少し肩の荷が軽くなった気がします。誰かに届いてほしいとか、共感してほしいとか、そんな欲があるわけではないけれど、ただ「言葉にする」という行為そのものが、疲れに小さな出口を作ってくれる。そう感じています。