『業務完了です』より、誰かの『お疲れ様』が欲しいだけ
仕事は終わってるのに、気持ちが終わらない
日々、淡々と業務をこなしていく司法書士という仕事。書類は片付き、登記は完了し、予定していた業務はすべて「完了報告」という形で終わる。けれど、心のどこかで何かが満たされない。今日も「終わりました」と報告した。でもそのあとに何もない静けさが、いつもより重たく感じた夜だった。
一日の終わりに送る「完了報告」がむなしい
夕方になると、事務員さんにLINEかメールで業務の進捗を伝える。「今日の案件、無事完了しました」と。特に問題がなければ、返ってくるのは「了解です」の一言だけ。事務的にはそれで十分なんだけど、心が疲れているときには、その一言がやけに冷たく感じることがある。
形式としては正しい。でも、何かが足りない
「業務完了報告」って、正しくやればやるほど、そこに感情がなくなる。ちゃんとした形式、抜けのない内容、誰が見てもわかりやすい進捗状況。でも、だからこそ、人間味がどんどん削ぎ落とされていく。そんな自分のやり取りを見返して、「自分、ロボットみたいだな」って思ったこと、何度もある。
ただの報告じゃなくて、会話がしたいのかもしれない
本当は、報告の後に「お疲れ様です」と返ってきて、それに「今日も疲れました〜」って返せたら、それだけで少し救われたかもしれない。誰かと感情を共有できるって、こんなにも大事だったんだなと、独り言のように思う。報告じゃなく、会話がしたい。それが本音だったりする。
司法書士って、そんなに“ねぎらわれる”職業じゃない
資格職って、どこか「できて当たり前」「プロなんだから当然」という空気がある。司法書士も例外ではなく、感謝の言葉をいただくこともあるけれど、それはあくまで形式的。本当に「人としてねぎらわれる」ことは、思ったより少ない。頑張っても、誰も「よくやったね」なんて言ってくれない。
お客さんは感謝してくれる。でも、それだけじゃ足りない
たしかに、お客様から「ありがとうございました」と丁寧なお言葉をいただくことはある。けれど、それは案件としての成果への感謝であって、自分自身の疲労や努力に対するねぎらいではない。それでも「ありがとう」と言われたら笑顔で返す。それが仕事だと、自分に言い聞かせながら。
「報酬があるからいいでしょ?」って言われるけど
たまに「士業は報酬が高いんだから、ねぎらいなんていらないでしょ」と言われることがある。でも、それって本当にそうだろうか。お金だけじゃ心の疲れは取れないし、人としての承認欲求は満たされない。「報酬≠ねぎらい」だという当たり前のことが、忘れられている気がしてならない。
ありがとうより、お疲れ様の方が響く日もある
不思議なもので、「ありがとう」より「お疲れ様」の方が心に沁みるときがある。特にしんどい一日だった時なんかはなおさらだ。ねぎらいの一言って、相手が自分の“疲れ”や“頑張り”をちゃんと見てくれているという証明になるのかもしれない。自分にとって、それは大きな意味を持つ。
一人でやってる事務所の孤独
地方の小さな司法書士事務所で、一人事務員さんを雇っているとはいえ、やはり日々の判断や責任はすべて自分にのしかかる。相談相手も少なく、ちょっとした愚痴を言える相手もいない。昼食も一人、休憩も一人。そんな日常に慣れながらも、どこか満たされないものが常にある。
事務員さんはいる。でも“仲間”ではない
事務員さんはよくやってくれているし、感謝もしている。でも、こちらが抱える不安や責任を共有できるわけではないし、愚痴を言う相手でもない。立場が違うって、やっぱり大きい。だからこそ、ふとした瞬間に「ひとりで全部背負ってるな」と感じることが多い。
感情を共有できる相手が、どこにもいない
忙しい日の帰り道、ふとスマホを見ても誰にも連絡したくないし、できる相手もいない。SNSに書き込むほど若くもないし、同業の飲み会は疲れるだけ。だから気づけば、自分の感情の行き場がなくなっている。誰かと「今日、疲れたね」と言い合えたら、それだけで楽になれるのに。
「お疲れ様」を自分で自分に言うむなしさ
誰からも言われないなら、自分で自分に「お疲れ様」とつぶやく。でも、それはどこかむなしい。声に出しても響かない。鏡の前でつぶやいても、そこにいるのは疲れきった自分だけ。それでも言わずにはいられない。せめて、自分だけでも自分を認めてあげたくて。
「お疲れ様」を言える人でいたい
人からもらえないからこそ、自分は「お疲れ様」を言える人でありたい。どんなに小さなことでも、誰かの頑張りを見逃さずに、声をかけられる存在でいたい。もしかしたら、自分もそうされる日が来るかもしれない。そんな淡い希望を持ちながら、また明日も業務報告を送る。