「モテなそう」と言われた瞬間、なぜか刺さった
先日、取引先との会話の中で不意に「先生って、なんかモテなそうですよね」と言われた。もちろん笑い話の流れだったし、相手に悪気はなかった。だけど、不思議と胸に小さなトゲのように刺さった。「ああ、やっぱりそう見えるんだ」と、自覚と他者からの評価がピタリと一致してしまった瞬間。鏡を見ても、自分が“モテる側”でないことは分かっている。だけど、わざわざ言われると、そこに「社会的価値の低さ」みたいなものを感じてしまって、なんだか情けないような、むなしいような。モテなくても、司法書士はできる。でも、どこかで引っかかっている自分がいた。
言葉は刃物より鋭い──あの一言が心に残る理由
「モテなそう」って、実はすごく評価が詰まっている言葉なんだと思う。「魅力がなさそう」「垢抜けてない」「余裕がなさそう」、そんなイメージをひとまとめにされるような気がする。自分で「どうせ俺なんて」と言う分には冗談になる。でも、外から言われると、それはもはや“診断”のようで。ある意味、核心を突かれた感覚がある。司法書士としての仕事の評価ではなく、人間としての価値を測られたような気分になるのだ。たとえ軽口だったとしても、その言葉の重みは、意外と後を引く。
なぜか冗談にできない“評価”
世間話の延長にあるはずの一言なのに、こちら側がどうにも笑い飛ばせない。なぜかと考えると、自分自身がそれを気にしているからだと思う。40を過ぎても独身で、地味で、目立つ趣味もない。「なんで結婚してないの?」という質問に答えるより、「モテなそうですね」の方がよっぽどグサッと来る。自分の中でも薄々感じている“不足”を、他人にさらされるような気分になるからだ。
自分でも気づいていた、けど他人に言われると辛い
学生時代から、周囲に比べて色恋沙汰に疎かったし、目立つタイプでもなかった。恋愛の“場数”も少なく、今さら何をどうしていいかわからない。そんな自分を責めることはないと頭では分かっているけれど、他人から突っ込まれると、まるで人生のどこかで“正解”を逃したような気持ちになる。自分でも納得していない部分だからこそ、外からの言葉は鋭く響くのだ。
司法書士としての日々と、モテなそうの因果関係
仕事に追われる日々は、見た目や社交性に気を遣う余裕を削り取っていく。相談対応に登記手続、事務作業も全部こなさなきゃいけない。しかも地方の事務所ゆえに人脈も限られている。そんな生活の中で、オシャレや恋愛を楽しむ感覚は、どこか遠い世界の話になってしまった。結果、「モテなそう」と言われても仕方がない生活スタイルになっている気もする。
忙しさが表情を曇らせる
疲れていると、どうしても表情が固くなる。柔らかい笑顔なんて、余裕がないと出てこない。とくに月末や年度替わりの時期は目が死んでるって言われたこともある。別に仏頂面をしているつもりはないけど、クタクタに疲れた中年男性に「モテ要素」は見出されにくいだろう。本人としては真面目に働いてるだけなんだけど、それが逆に“近寄りがたさ”を生んでしまうのかもしれない。
仕事に追われ、身なりは後回し
スーツはいつも同じ2着をローテーション。髪型も気にせず、朝はギリギリに起きて最低限整えるだけ。鏡を見ること自体が減っている。そもそも鏡を見ても「別に誰に見せるわけでもないし」と思ってしまう。そういう積み重ねが“モテなそう”という印象に拍車をかけている気がする。でも、これはもう職業病というか、忙しさがつくる“無関心”の結果なのだと思う。
「無精ひげ=ダメな人」判定、されがち問題
たまたま残業続きでヒゲを剃るのを忘れた日、事務員さんに「先生、ちょっと疲れすぎじゃないですか?」と言われたことがある。それだけでなく、初対面の依頼人には怪訝な顔をされたりもする。「清潔感」は信頼の一部であり、それは“モテる・モテない”以前の話だと痛感した。だが、それすら後回しにしてしまうのが、この仕事の現実でもある。
僕が“モテなそう”なままでも、生きていくために
人にはそれぞれ役割がある。僕は恋愛上手じゃないし、イケメンでもない。だけど、地元の誰かの手続きで困ったとき、「この人なら安心」と思ってもらえるようにはなりたい。モテることを諦めたわけじゃないけれど、それよりも大事なことを日々積み重ねている気がする。自分の価値は、他人の評価では決まらない。そう自分に言い聞かせて、今日も静かに事務所の鍵を開ける。