なぜか億劫になる「同業者との集まり」
司法書士という仕事は、ある意味で孤独です。だからこそ、たまに誘われる同業者との集まりは貴重な交流の場なのかもしれません。でも、なぜか僕は気が進まない。「また誘われたか…」と内心ため息が漏れることもあります。別に嫌いなわけじゃない。むしろ話せば勉強になることもあるし、いい人たちばかりです。ただ、どこか心の奥底でブレーキがかかる。その原因を、自分なりに考えてみました。
誘われると断れないけど、心は重たい
「〇月〇日、空いてる?久しぶりに集まらない?」そんなLINEが届くたびに、僕の中では小さな戦争が始まります。行くべきか、断るべきか。でも断る理由が明確じゃないときって、本当に厄介なんですよね。「ただなんとなく行きたくないです」なんて、言えるわけがない。結果、「行けたら行きます」なんて曖昧な返事をして、自分で自分を追い詰めてしまう。義理と気遣いだけで動いている気がして、余計に疲れます。
行けば行ったで、なんとも言えない疲労感
実際に参加すると、それはそれでそれなりに楽しい雰囲気にはなる。でも、心の底からリラックスできているかと言われると…そうでもない。笑顔で「最近どう?」なんて言い合いながらも、頭の中ではずっと、自分の立ち位置を探っている。「この中で、自分はどれくらい稼げてるんだろう」「後輩に追い越されてないか?」そんな雑音が止まらない。帰り道には、妙な空しさと疲労感だけが残ります。
「また会いましょう」の言葉に、どっと来る
「今日は楽しかったね!また集まろう」——この言葉が、なぜか苦手です。いや、建前だって分かってるんです。社交辞令だって分かってる。でも、「また」が来ると思うと、次の億劫さがもう始まってしまう。何度も「また」が続いていくたびに、自分だけが置いてけぼりになっているような気分になる。「本当は行きたくなかったんだよな」と後悔しながら、帰りの車内でため息をつく自分がいます。
比べてしまう自分がしんどい
人と会って話すのは本来、刺激を受ける機会であるはず。でも、僕にとってはその刺激が、時に毒になる。なぜなら、つい比べてしまうから。「比べなければいい」とは頭では分かっている。でも感情はそんなに素直じゃない。相手の話す成果、事務所の規模、ライフスタイル。どれもが自分の現状と照らし合わされてしまって、心がすり減っていくのを感じるんです。
年収、件数、従業員数、そして家族の話
たとえば同業者の飲み会でよくある話題。「今年、登記件数どれくらいだった?」とか「うちは今、事務員3人で回してるよ」なんて話を聞くたびに、僕は無言になります。うちなんて、事務員ひとりで精一杯。家族の話題に至っては、完全に蚊帳の外。「うちの息子がね」「この前、家族旅行で…」と話されると、笑顔で相槌を打ちながらも、心は凍っています。
勝ち負けじゃないのに、負けた気がする
人生に勝ち負けなんてないと分かっている。でも、そういう場ではなぜか、誰かと競っているような気持ちになるんです。何も競争していないのに、なぜか一人だけ遅れているような、取り残されているような。誰も僕を責めていないのに、僕だけが自分にダメ出しをしている。それが一番しんどい瞬間かもしれません。
孤独が余計に身にしみる瞬間
周囲が楽しそうに笑っているのに、自分だけがその輪の外にいるような気がすることがあります。たとえ同じテーブルに座っていても、心の距離は遠いまま。「ああ、早く帰りたいな」と思っても、それを顔に出すわけにもいかず、ただ黙ってグラスを傾ける。こんなに人がいるのに、なんでこんなに孤独なんだろう。帰りの夜道は、妙に静かです。
笑って過ごすのが、だんだんつらくなる
誰かと会って、ずっと笑顔でいるって、実はものすごく体力を使う。とくに、素の自分を出せない場では。それが同業者の集まりだと余計にそう感じてしまいます。「話を合わせなきゃ」「空気を悪くしないようにしなきゃ」と意識しているうちに、笑顔がどんどん作りものになっていく。そして帰ってきて鏡を見ると、妙に疲れた顔が映っているんです。
無理に合わせる自分に自己嫌悪
本当は興味がない話題にも「へぇ〜」「すごいですね」と相槌を打ってる自分に気づくと、なんだか虚しくなるんです。まるで営業スマイルを繰り返しているような感覚。帰りの車で、「今日の自分は何だったんだろう」と思ってしまうこともある。気を使いすぎる自分が悪いのか、それともそうしないと居場所がなくなる環境が悪いのか、答えは出ません。
場を壊したくないけど、壊れそうなのは自分
「もう帰ろうかな」と何度も思っても、場を白けさせるのが怖くて言い出せない。結局、最後まで付き合ってしまって、帰宅は深夜。次の日の朝、疲労感とともに仕事が待っている。場の空気を壊したくない一心で、無理をする。でも、壊れかけてるのは、実は自分自身なんですよね。そんな矛盾に気づくと、余計に気が重くなります。
じゃあ、どうすればラクになれるのか
このままだと、どんどん自分の心がすり減ってしまう。じゃあどうすればいいのか。正直、万能薬はありません。でも、自分なりに「こうすれば少しだけラクになれるかも」という方法を見つけてきました。それは、小さな勇気と、ゆるい繋がりです。
「行かない」という選択肢を許す
行かないと悪い気がしていたけれど、「今は行きたくないから行かない」って、実はすごく正直で健全な選択です。義理や体裁ばかりを優先して、自分の心を置き去りにし続けていたら、いつか壊れてしまうかもしれない。それに、誘われたからといって必ず応じなきゃいけないなんてルールはどこにもない。断ることは、時に自分を守ることなんだと気づきました。
義理を切る勇気も、たまには必要
「断ったら、もう誘われなくなるかも」と思っていたけど、それで縁が切れるような関係なら、それまでだったのかもしれません。逆に、ちゃんと自分の意思を伝えることで、理解してくれる人もいます。義理を切るというより、自分に正直でいること。それを大事にするようになってから、少しだけ心が軽くなりました。
一人で頑張ってる人と、ゆるくつながる
同業者の集まりが苦手でも、誰かと繋がっていたい気持ちはあります。だからこそ、SNSや小さな勉強会など、自分のペースで関われる場所を見つけました。相手も一人で頑張ってる司法書士だったりして、無理に背伸びせず、等身大で話せるのが心地いい。張り合う必要もなく、弱音も吐ける。そんな関係が、今の僕には必要だったのだと思います。
比べ合いじゃない関係が救いになる
「すごいね!」より「大変だよね」のほうが、救われる時があります。どちらが上とか下とかじゃなくて、同じ目線で「しんどいよね」と言い合える仲間がいると、やっぱり気持ちが違います。比較されない場所、自分を守れる空間。そういう関係を少しずつ育てていくことが、僕にとっての回復手段なんです。
誰かに話すだけで、少し軽くなることもある
たぶん、このコラムを書いている今も、僕は自分の心の整理をしているんだと思います。誰かにわかってほしい、というより、自分で自分の気持ちを言葉にして、見つめ直している。弱音を吐くことは恥ずかしいことじゃない。むしろ、それができるからこそ、次に進める気がするんです。
「弱音」と「本音」は違うけど、どちらも大事
弱音ばかり吐いていると嫌われるかも、と思う気持ちもある。でも、それを我慢し続けていたら、本音がどこかに消えてしまう。本音を持ったまま、時には弱音を漏らす。それって案外、健康的な生き方なんじゃないかと思うようになりました。強がってばかりじゃ、続かないですから。
SNSやブログでの発信が、意外と助けになる
誰にも言えなかったことを、ふとTwitterやブログに書いてみたら、同じような悩みを持ってる人たちから反応があって驚いたことがあります。直接会うのが苦手でも、こういう形でゆるく繋がれるのって、現代ならではのありがたさ。発信は、誰かのためじゃなくて、自分のためにしていいんですよね。