あのときの選択は、本当に正しかったのか?

あのときの選択は、本当に正しかったのか?

過去を振り返るとき、胸の奥に浮かぶ問い

ふとした瞬間に「本当にあの選択でよかったのか」と考えることがある。たとえば、静かな日曜の夕方、事務所のソファに沈み込んで冷めたコーヒーを見つめていると、あのとき別の道を選んでいたらどうなっていただろう、と考え込む。もう戻れないとわかっていても、あの選択の場面が、夢のように何度もリプレイされる。45歳になっても、選択の重みは消えないまま心に残り続けている。

あの依頼を受けた日、何かが変わった

独立して2年目、とある土地家屋調査士との紹介で、大手の不動産会社からの案件が舞い込んできた。業務量も報酬も大きかったが、違和感もあった。契約書に目を通すたびに「これは本当に受けていいのか?」と不安がよぎる。それでも「これを逃したら次はないかもしれない」と自分に言い聞かせて押し切った。今思えば、あの判断が、歯車を少しずつ狂わせていったのかもしれない。

思い返すたびに浮かぶ「別の選択肢」

当時、他にも中規模の案件が並行して進んでいた。そのまま堅実に回していれば、精神的にも時間的にももう少し穏やかだったかもしれない。だが、自分は「成長」や「挑戦」という言葉にすがりたくなっていたのだ。小さな事務所を構えた責任と、「期待に応えなきゃ」というプレッシャーが、現実的な判断を曇らせていた気がする。

あの日の自分には、何が見えていたのか

目の前に積み上がる請求書と、給与明細を待つ事務員の顔。それが当時の僕には現実だった。正しさよりも「今をなんとかすること」が優先された。合理的な選択ではなく、切羽詰まった感情の選択。それが真実だったと思う。そしてその「現実」が、後々に予想以上の代償を生むことになるとは、あのときの自分はまだ知らなかった。

決断の裏にあったものは「不安」だった

僕たちの仕事は、ミスが許されない一方で、「全部自分で決めなければならない」という孤独と常に隣り合わせだ。夜中まで登記の補正対応をしても、誰かが「おつかれさま」と声をかけてくれるわけでもない。不安と向き合いながら、選んだ道を正当化しようとする自分に、少しずつ疲れていった。

「やらなければいけない」という焦り

独立してからの数年間は、「選んだ以上は成功させないと」という思いが先に立ち、いつの間にか仕事が“義務”に変わっていた。「休むと不安になる」「断ると次が来ないかも」という焦りが、常に付きまとっていた。選択肢がいくつかあったとしても、「一番無難」な道を、反射的に選んでしまうようになっていた。

失敗しても誰も気づかないときの寂しさ

誰かに叱られるわけでも、評価されるわけでもない日常。それが司法書士という仕事の現実だ。だからこそ、選択の失敗はすべて自分の内側で処理するしかない。誰にも共有されず、誰にも理解されないまま、蓄積していく感情は、やがて「孤独」という名前で僕を締め付けていった。

誰にも相談できなかったあの夜

報酬の支払いが遅れ、資金繰りがギリギリになったとき、誰にも言えなかった。情けなさと焦燥感で寝付けない夜、事務所の天井を見つめながら「こんなはずじゃなかった」と呟いていた。それでも、翌朝はいつも通りに戸籍謄本を取り寄せ、申請書を作る。感情に蓋をして、ただ目の前の仕事に取りかかるしかなかった。

選択肢のなかで、一番マシな道を選ぶという現実

僕らのような地方の個人事務所にとって、「選択肢が多い」なんてことはめったにない。むしろ「少ない選択肢のなかで、少しでもマシな方を選ぶ」という日々だ。そこには夢や希望ではなく、「現状維持」と「転ばないためのリスク管理」だけが存在している。

理想と現実のギャップが広がっていく

司法書士を目指していた頃、もっと自由で、もっと社会的に意義のある仕事をするつもりだった。だが、現実は目の前の書類に追われ、クライアントとの交渉に振り回され、理想はどこかへ消えてしまった。ギャップに疲弊しながらも、「自分で選んだんだから」と自分を責め続ける日々だった。

もう少しだけ勇気があれば、違う道もあった

たとえば、もっと早く法人化していたら。たとえば、もう少し早く仲間を増やしていたら。後悔は尽きないけれど、それを思うたびに「自分にはその勇気がなかった」と認めざるを得ない。あのときの自分には、そこまでの体力も、精神的な余裕もなかったのだ。

誰かに「正しかった」と言ってほしかった

本当は誰かに言ってほしかった。「お前の選択は正しかったよ」って。でも、そんな言葉は誰からももらえない。成功しても失敗しても、自分だけが知っている選択の重さ。だからこそ、自分の心のなかで何度も確認するしかなかった。「あれは正しかったのか?」と。

結果だけを見られる仕事のつらさ

司法書士の仕事は、「完了して当たり前」の世界だ。依頼人は過程を見ないし、感謝の言葉があるとも限らない。努力や葛藤を誰にも見てもらえないまま、淡々と結果を求められる日々。報われないと感じたとしても、それを外に出すわけにはいかない。だからこそ、胸の内に言葉にならないものが溜まっていく。

責任を背負いながら、心がすり減る

小さな事務所の代表として、すべての判断は自分に委ねられている。ちょっとした選択ミスが、損失につながり、信頼を失う。そんなプレッシャーのなかで、「正しさ」を探し続けることは、精神をすり減らす作業だ。それでも、誰にも頼れない自分がいる。

それでも、今ここにいる理由

あのときの選択が正しかったかどうかなんて、今でもわからない。でも、間違いだったとしても、それを自分で引き受けてきたことにだけは、誇りを持ちたい。たとえ遠回りだったとしても、この道を歩んできたのは、他でもない自分だから。

選んだ道に意味を持たせるのは、自分自身

他人がどう言おうと、自分の選んだ道に意味を持たせられるのは、自分しかいない。過去の選択を後悔することもあるけれど、それを糧にするか、傷にするかは、自分の姿勢次第だ。まだ終わりじゃない。これからだって、選択は続く。

後悔と共存しながら生きていくということ

後悔しない人生なんてない。でも、それでも生きていく。仕事に向き合い、疲れたらちょっと愚痴って、また書類をめくる。そんな毎日を繰り返しながら、少しずつでも「正しかった」と思える自分に近づいていけたら、それだけでいい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。