理不尽に慣れてしまったとき心がどうなっていたか

理不尽に慣れてしまったとき心がどうなっていたか

気づけば受け流していた毎日の理不尽

最近ふと気づいたんです。昔なら腹が立っていたようなことに、何も感じなくなっている自分がいるって。たとえば、顧客に約束を破られても、「まぁ、そんなもんか」と済ませてしまったり。理不尽なクレームにも「はいはい」と頭を下げて終わらせたり。最初はそんな自分に違和感がありましたが、いつの間にかそれが日常になってしまっていて。理不尽さに慣れるというのは、自分の中の大切な何かが摩耗している証拠かもしれないと思ったんです。

最初はムッとしたはずの言葉が何も感じなくなる瞬間

昔、開業したばかりの頃は「お前なんかに頼まなきゃよかった」と言われただけで、夜眠れなかったものです。でも今は違う。電話を切ったあとに「またか」と思うだけで、感情がピクリとも動かない。あのとき怒ったり悩んだりしていた自分は、まだ“まっとうに働こう”としていたんだと思う。今はただ流して、効率だけを優先してしまっている。そんな自分に気づく瞬間って、ちょっとした敗北感があります。

怒る気力すら削がれていく感覚

怒るって、けっこうエネルギーが要るんですよね。年齢のせいもあるかもしれませんが、体力も気力も削がれていく中で「どうでもいいか」という気持ちが勝ってしまうことが増えてきました。たとえば、納得いかない報酬の交渉や、無理難題のスケジュール調整に対しても、正面からぶつかることを避けてしまう。「また明日もあるし…」という逃げの言葉で自分を納得させる。でもその積み重ねが、自分をすり減らしてるんだと後から気づくんです。

感情を出すことが迷惑になるという誤解

事務員が一人だけなので、感情を出すとその空気が事務所全体に伝わってしまう。それが怖くて、何でも穏便に済ませようとする癖がついてしまいました。でも本当は、もっと怒っていいし、もっと泣いてもいいんじゃないかと思うんです。自分の感情を押し殺し続けてきた結果、何が本音かわからなくなってきた。感情を出すのが“悪”だと錯覚してたんですね。でもそれ、誰かに教えられたわけじゃなくて、自分が勝手にそう思い込んでたんです。

地方事務所という閉じた世界での慣れ

都会と違って、地方で開業していると、コミュニティの狭さがプレッシャーになります。誰がどこでつながっているかわからないし、悪い噂はすぐに広まる。だからなおさら、事を荒立てたくないという気持ちが先に立ってしまいます。「理不尽でも我慢しとけ」という雰囲気が漂っていて、それに慣れてしまった自分がいる。だけど、心の奥底ではずっと何かが引っかかっているんです。

「そういうもんだよ」と言われる違和感

他士業の先輩や、地元の年配の方から「そんなの普通だよ」「そういうもんだよ」と言われるたび、心の中でモヤモヤが大きくなっていました。いや、本当にそれでいいのか?自分はそれを“普通”として受け入れていいのか?そう思っても、反論するほどの気力がもう残ってない。理不尽が常識になるのは、たしかに楽だけど、楽な分だけ自分の中に澱のように溜まっていくものがある気がします。

逃げ場のなさと心の摩耗

一人で事務所を回していると、物理的にも精神的にも逃げ場がありません。壁に向かって愚痴を言っても何も変わらないし、誰かに相談するにも相手がいない。友人に話すと「お前が選んだ道だろ」と返ってくるだけ。結局、理不尽さを抱えたまま、また次の日が始まる。これが続くと、心がすり減っていることにすら気づかなくなってしまいます。

なぜ慣れてしまうのか自分に問いかけてみた

慣れたというより「諦めた」に近いかもしれません。理不尽に反応するのは疲れるし、面倒なことも増える。でもその代償として、自分の中の“まっとうさ”がどんどん薄れていってしまう気がして。自分が司法書士として、そして人としてどうありたいかを考えるきっかけが、こういう「慣れ」の中に隠れているのかもしれません。

ストレスよりも空気を壊したくない気持ち

一番大きいのは、ストレスよりも“場の空気”を壊したくないという気持ちです。お客様との関係、事務員との関係、地元との関係、どれも微妙なバランスで成り立っているからこそ、波風立てるのが怖い。でもそれって、自分の気持ちよりも他人の顔色を優先しているってことなんですよね。その積み重ねが「理不尽でもしょうがない」と感じさせるようになってしまったのかもしれません。

元野球部の我慢癖が抜けない

高校時代、野球部で「文句を言うな」「声を出せ」「走れ」と言われ続けたことも、今の自分に影響しているのかもしれません。理不尽な練習に耐えてきたから、社会の理不尽にも我慢するのが当たり前になっている。無意識に、「我慢するのが美徳」という価値観を握りしめてる。でも、我慢してばかりの人生って、本当に幸せなんでしょうか。司法書士としてのキャリアも、それを問い直す時期にきている気がします。

独身生活の静けさが思考を鈍らせる

家に帰っても誰もいない。テレビをつけて、晩酌をして、一言も声を発さずに一日が終わる。そんな生活が10年以上続いています。だからこそ、感情の起伏がどんどん減ってきている。誰かに「それ、ひどいよね」と共感してもらえる機会もないから、理不尽に対するセンサーが鈍くなっているのかもしれません。自分をリセットする場所が、今の生活には存在していないんです。

事務員ひとりに愚痴を言えない日々

信頼できる事務員がいるのはありがたい。でも、だからこそ、こちらの愚痴や本音をぶつけるわけにはいかない。相手だって生活があるし、重たい話を聞かされ続ければ、辞めてしまうかもしれない。だから私は、自分の感情を自分の中だけで処理するクセがついてしまったんです。でもそれが一番、自分を追い込んでいる原因なのかもしれないと最近思うようになりました。

話しかける相手がいない日常

休日に街を歩いていても、誰かと話す機会はほとんどありません。コンビニの「袋いりますか?」くらい。そんな中で、理不尽さを感じても誰にも言えず、心の奥にしまい込んでしまう。吐き出す場がないと、人はどんどん内側に閉じこもってしまうんですね。だからこそ、こうやって文章にしてみることで、少しでも整理できるといいなと思っています。

誰かに話すだけで変わることもある

話すだけで心が軽くなる、というのは本当です。昔、一度だけ同業者の飲み会で理不尽なクレームの話をしたら、みんな同じようにうなずいてくれたことがありました。あのときは、「ああ、みんなそうなんだ」と少し救われました。だからこそ、司法書士の仕事は一人きりでも、心まで一人にならないように、こうやって誰かに伝えていくことが大切なのかもしれません。

理不尽に慣れない生き方も選べるのか

もしかしたら、理不尽に慣れずに生きていく道もあるんじゃないかと思い始めました。全部に反発するわけにはいかない。でも、自分の中で「これはおかしい」と思ったことには、ちゃんと立ち止まっていい。そうやって、自分の心に正直になることが、司法書士としても、人間としても、これからの自分を守る方法になるのかもしれません。

優しさと我慢を切り離すことの難しさ

私は優しい人間だとよく言われます。でもその優しさが、我慢という形で現れてしまっているのかもしれない。優しさと我慢は似ているようで違うんです。自分を犠牲にしてまで相手に合わせるのは、もしかしたら本当の優しさではないかもしれない。少しずつ、自分のための優しさも育てていきたいと思っています。

仕事への向き合い方を変えるタイミング

長年、目の前の仕事をこなすだけで精一杯でした。でもこれからは、どう仕事と付き合っていくかを見直すタイミングなのかもしれません。理不尽を受け入れるのではなく、理不尽を減らす努力をする。そのために、依頼の断り方やスケジュールの調整など、できることから少しずつ変えていきたいと思っています。

司法書士としての「自分なりの線引き」

すべてを受け入れる必要はない。そう思えるようになったのは、最近です。「ここまではやる」「ここから先は断る」という線引きを、自分の中で持っておくこと。それが、理不尽に慣れないための第一歩になるのかもしれません。今日も明日も、きっと何かしら理不尽なことは起きるけれど、自分の心まで明け渡す必要はないんですよね。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。