ふとした瞬間に、心をざわつかせる「笑顔」
人の笑顔は本来、見ているだけで心が和むもののはずなのに、最近はそうでもなくなってきた。特に同世代のそれが、一番まぶしく感じる。誰かの幸せそうな顔を見るたび、胸の奥が少しだけチクっとするようになったのは、いつからだったか。無理してうなずいても、素直に喜べない。そんな自分に自己嫌悪を覚えながらも、どうしようもない。この仕事をしていると、どうしても人の裏側や問題を見てしまう。そんな中で、自分だけ取り残されているような錯覚に陥る瞬間がある。
同窓会の写真が届いた夜
その日は、仕事が山積みで、ようやく夕飯にありついたところだった。スマホに届いたグループLINEの通知。開いてみると、大学時代の同窓会の写真がずらっと送られていた。笑顔、笑顔、また笑顔。子どもを抱いた友人、奥さんと並んで笑う同級生、転職して上手くいっているらしい奴。画面の中の彼らは、みんな幸せそうだった。俺はというと、一人きりの部屋でカップラーメンをすすっていた。冷めた湯気が、なぜかやけに目にしみた。
写っていたのは「幸せそうな誰か」だった
あの写真に写っていたのは、まぎれもなく「成功」や「安定」を掴んだ人たちだった。写真だけで全部がわかるわけじゃない。誰だって苦労はある。でも、そんな理屈が頭のどこかで響いていても、感情は正直だ。うらやましかった。何も持っていないように感じた。別に誰かに勝ちたいわけじゃない。ただ、「ああ、自分はどうなんだろう」と、鏡を突き付けられたような気持ちになるのだ。
見なければよかったと思いながら、何度も見てしまう
LINEを閉じようとしても、ついまた開いてしまう。何度も同じ写真をスクロールして見てしまう自分が情けなかった。でも、やめられなかった。もしかしたら、自分の中の何かが「確認したかった」のかもしれない。他人と自分の距離。他人が持っていて、自分にないもの。そうやって比べてしまうのは、きっとまだ自分に足りないものがあると思っているから。そんな夜は、決まって眠りが浅くなる。
なぜ、他人の幸せがまぶしく見えるのか
他人の人生がどう見えても、それはその人の歩んだ道であって、自分のものではない。頭では理解しているのに、心がそれを拒む日がある。特に、自分の努力が報われていないと感じる時期には、他人の幸せがより強烈に目に映る。まるで、自分のダメさを突きつけてくるかのように。そんな感情の中で、ふと気づく。「今、自分はがんばれているのか」と。
努力しているのに、報われていない気がする日々
地方の司法書士事務所。依頼はぽつぽつ来るが、都市部のように案件が豊富なわけじゃない。広告を打っても反応は鈍い。地元のネットワークは閉じていて、新規開拓も簡単じゃない。そんな中で毎日、朝から晩まで目の前の書類と格闘している。真面目にやっているはずなのに、「報われてる」という実感が、どうしてもわかない日がある。
「がんばってるね」と言われるほど、空しくなる
たまに言われる。「○○さん、がんばってますね」って。でも、その言葉がなんだか空々しく聞こえることがある。結果が伴っていないと、自分でも虚しいのに、それを励まされるとますます現実が浮き彫りになるような気がする。「がんばってるね」と言われるたび、内心では「そんなことないのに」と呟いてしまう。だけど、それでもがんばらないと、何も進まないから、黙ってやるしかない。
結婚も子どももマイホームも、ない人生の不安
世間的な「普通」の幸せ。家族、子ども、家、休みの日のレジャー。気づけば、自分の人生にはどれもない。「自分は望まなかったからだ」と強がってみても、ふとした拍子に寂しさが押し寄せる。老後のこと、病気になったときのこと、孤独死…。想像するにはまだ早いかもしれないけれど、少なくとも笑顔の向こうにある“当たり前”が、まぶしすぎる時がある。
地方の司法書士という孤独な立ち位置
この仕事には、派手なスポットライトはない。ましてや地方となれば、さらに孤独さが増す。相談に来る人はいる。けれど、相談されたことは守秘義務。誰かと共有することもできないし、同じ悩みを打ち明けられる仲間も多くはない。日々をこなす中で、自分という人間が、どんどん透明になっていくような感覚に陥る。
相談相手は、目の前の事務員さんだけ
唯一のスタッフである事務員さんは、よく気が利く人だ。でも、こちらの悩みを話す相手ではない。年齢も一回り以上違うし、距離感を考えれば雑談が限界。愚痴の一つも吐き出せない。気づけば、相談相手は「自分の中の自分」だけになっていた。頭の中でブツブツ言って、勝手に落ち込んで、勝手に立ち直る。それを繰り返す毎日。
同業者の飲み会にも行かなくなった理由
昔は、地域の司法書士会の集まりにも顔を出していた。でも最近は、行っても話が合わない。みんな、家庭の話や趣味の話で盛り上がっている。自分はといえば、語るべき話題がない。気づけば「忙しくて」と言い訳をして、誘いを断るようになった。実際に忙しいのは事実だが、心が向いていないのも事実。孤独を深めているのは、自分自身かもしれない。
それでも毎日、目の前の仕事をこなす理由
やめようと思ったことは、正直に言えば何度もある。それでも事務所に来て、机に向かうのは、やっぱり目の前の誰かがいるから。派手な感謝なんていらない。たった一言でも「助かりました」と言ってもらえると、不思議と少しだけ救われる。それが、この仕事を続ける理由になっている。
依頼者の「助かりました」に救われている
ある日、相続手続きを終えたご年配の女性が、深々と頭を下げてくれた。「あなたのおかげで、前に進めそうです」と。その一言に、涙が出そうになった。誰かの人生に関われる。誰かの一歩に、ほんの少しでも寄り添える。そう思える瞬間がある限り、たとえ自分自身が迷っていても、この仕事は続けられると思った。
たとえ感謝されなくても、役目があるということ
すべての仕事が感謝されるわけじゃない。むしろ、無言で終わる案件の方が多い。でも、それでもいいと思っている。見返りじゃなく、自分の役目として淡々とこなす。それがこの仕事の本質なんじゃないか。そんなふうに思えるようになったのは、ここ数年のことだ。
いつか笑える日のために、今日も仕事場へ
同世代の笑顔に嫉妬しても、比べても、自分の人生は自分だけのもの。焦る必要はない。たとえ誰とも笑い合えなくても、無理に笑わなくてもいい。ただ、立ち止まらずに、自分の場所で踏ん張っていればいい。きっとそれでいいのだと思いたい。
同世代の笑顔に嫉妬してもいい
羨ましくなるのは、自分にまだ希望がある証拠だと思いたい。もし完全に諦めていたら、他人の幸せに胸をざわつかせることもないはずだから。だから、嫉妬してしまってもいい。悔しくてもいい。そう思えるようになっただけでも、自分は少しだけ前に進んでいるのかもしれない。
でも、自分のペースで立っていればいい
誰かと比べて落ち込むのは、もう終わりにしたい。人生はマラソンでもないし、勝ち負けでもない。自分のペースで、倒れないように、一歩一歩進んでいければ、それでいいじゃないか。そう思いながら、今日も机の前に座って、静かにパソコンを立ち上げる。
司法書士という肩書きだけは、手放さずに
この肩書きが、今の自分をつないでくれている。自信がなくても、未来が不安でも、司法書士であるという事実だけが、揺らがずにいてくれる。だからこそ、続けようと思う。まぶしい笑顔に心が揺れても、自分の道を見失わないように。この場所で、今日も誰かのために働く。