第一章 朝の電話
その朝は、コーヒーの粉を切らしたところから始まった。眠気が残る頭でカップを手に取った矢先、事務所の電話が鳴った。相手は何も話さず、ただ沈黙だけを送ってきた。
無言の時間が1分以上続いたころ、僕は電話を切ろうとした。だがその直前、かすかに聞こえた「…助けて…」という声に、ただならぬ予感がした。
事務所にかかってきた無言の依頼
受話器の向こうから聞こえた声は、確かに怯えていた。誰かに監視されているような、そんな雰囲気だった。「相談なら予約を…」と口にした瞬間、通話はプツリと途切れた。
まるで旧作の探偵漫画の導入みたいな展開に、僕は鼻を鳴らして立ち上がった。サザエさんのマスオさんが慌てるシーンのように、現実はいつだって予想外だ。
第二章 古い登記簿の謎
翌日、法務局で調査をしていると、ある一筆の土地の登記簿に奇妙なことが書かれているのを見つけた。所有者欄には昭和63年で止まったままの名前があった。
それ自体は珍しくないが、奇妙なのは、その人物が3年前に亡くなっているはずなのに、登記に異動があったという点だった。書類上だけ、生きていた。
昭和の名残を残す不審な記録
登記の内容には「所有権移転」の文字があった。日付は令和元年。しかし、その所有者が死亡していたのは平成30年。つまり、亡くなった後に勝手に動かされたことになる。
その違和感を抱えながら、僕は昔の同期に頼んで戸籍の追跡を始めた。野球部時代、サインミスばかりだった僕も、こういう地味な作業だけは得意だ。
第三章 急ぐ依頼人
午後、事務所に駆け込んできたのは若い女性だった。名刺を差し出すでもなく、口早に「至急で登記の名義変更をお願いしたいんです」とだけ言った。
「必要書類は?」と聞くと、彼女は黙ったまま封筒を差し出した。その中には、整然と並べられた書類――しかしそこには、どこか機械的な違和感があった。
土地の名義変更に潜む違和感
資料を眺めていると、不自然な印影と、妙に新しい古物件の写真が混在していた。全部が正しく見えるのに、何かが違う。ツッコミどころが多すぎて、逆に手を出せない。
そのとき、サトウさんが横から冷たく言った。「これって普通じゃありませんよね?」――冷静な口調だが、彼女の眉がピクリと動いたのを僕は見逃さなかった。
第四章 サトウさんの冷静な一言
「この委任状、筆跡が微妙に違う気がします」とサトウさんは言った。僕が3分かけて見抜けなかった細部を、彼女は3秒で指摘した。…やれやれ、立場がないな。
コピーを見直してみると、確かに微妙に文字のクセが異なっていた。書き慣れていない人間が、誰かの筆跡を真似しようとした痕跡。つまり――偽造の可能性。
昔の野球仲間との意外な接点
その日の夜、居酒屋で酔っ払った野球部の元キャッチャーから思いがけない情報を聞いた。「そういえばな、あの辺の土地、昔ヤバい奴がからんでてさ…」
断片的な記憶だったが、それは今回の土地の旧所有者と関係があった。噂程度ではあるが、登記簿の裏にもっと深い事情があるのかもしれないと思い始めた。
第五章 亡き人の名義が動いた日
登記簿上での名義変更の日付に注目してみると、それが旧所有者の命日とほぼ同時期であることに気づいた。書類は生きているが、人は死んでいる。何かがおかしい。
調査を進めるうちに、当該の土地に関しては公正証書遺言が存在していた可能性が浮上した。しかし、それが登記には反映されていなかったのだ。
登記変更の矛盾に潜む影
遺言があったのに、名義が変更されている――そこには明らかに手続きの歪みがあった。まるで誰かが意図的に証拠を捻じ曲げたかのような、不自然な流れ。
しかも、その登記変更の申請者は、あの若い女性と同姓であることも判明した。偶然とは思えない一致が、次々と現れる。まるで探偵漫画のネタ帳みたいだ。
第六章 役所と法務局の狭間で
役所で照会した資料によると、旧所有者には他にも相続人が存在していた。しかし、登記にはその名前が一切出てこない。つまり、単独申請による独占の可能性。
その旨を確認しようと法務局に照会したところ、職員が「この申請、確かに変なんですよね」とぽつりと漏らした。やはり、何かが変だと感じていたのだ。
手続きの抜け道を探る
登記の形式要件を満たしていれば、法務局は形式上受理する。しかし、本当に正当な相続かどうかは司法書士が見抜くべき部分だ。そこが僕たちの仕事だ。
「不完全な登記ほど怖いものはない」――これは先輩司法書士の口癖だった。まさにその通りの事例が、今僕の目の前にあるのだった。
第七章 遺言書の見落とし
ようやく手に入れた遺言書の写しには、別の相続人の名前が明記されていた。それも、まったく関係ない第三者の名義ではなく、真っ当な親族の名前だった。
だが、それは意図的に申請から除外されていた。相続関係説明図には、その人物の存在がなかったのだ。つまり、完全に「存在しない者」として扱われていた。
公正証書に書かれていなかった一文
遺言書には一つだけ気になる空欄があった。「相続させる」と書かれた部分に、地番の詳細が抜けていたのだ。そのせいで法的効力が曖昧になり、悪用された。
つまり、悪意のある相続人が、その曖昧さにつけ込んで、他の相続人を排除したという構図が浮かび上がった。沈黙の登記簿が、ようやく語り始めた。
第八章 静かなる結末
数週間後、依頼人の女性は再び現れた。今度は、彼女の後ろに弁護士が立っていた。どうやら全てを認め、無効登記の是正を申し出たらしい。真実は勝った。
「やれやれ、、、」と僕は机に沈みながらつぶやいた。サトウさんは冷ややかな目で「無理せず寝てください」とだけ言った。たぶん、ありがとうの代わりなのだろう。
登記簿は無口だ。でも、その沈黙には、確かな証が隠されている。僕たちはその声なき声を、聞き取る役割なのだと改めて思った――司法書士として。