仕事に追われる日々の中でふと立ち止まる瞬間
朝から夕方まで、分刻みで予定が詰まっている日は、逆に安心する。考える暇もないからだ。だが、たまにポッと空いた時間にふと椅子にもたれて天井を見上げたとき、「俺、ずっと一人でやってるんだな」と思う瞬間がある。誰かと共有するでもなく、笑い合うでもなく、ただ仕事を「処理」しているだけの日々。気づかぬうちに心のどこかが乾いていく。元野球部で「声を出してなんぼ」だった自分が、こんなにも静けさに包まれる生活をしているとは、高校の自分が知ったら泣くかもしれない。
電話が鳴らない昼下がりの静けさが胸に刺さる
特に気持ちが落ち込むのは、平日の午後、電話も来客もないときだ。事務員が用事で出かけ、事務所内に自分しかいない。時計の音すら聞こえるような静けさに包まれて、「誰にも求められていない」と思ってしまう。実際は登記の相談や依頼はある。でも、そういう“業務的なつながり”じゃなくて、人間としてのやりとりが欲しくなるときがある。誰かが不意に「大丈夫ですか」と声をかけてくれたら、泣いてしまうかもしれない。
声を出すのは郵便局とコンビニだけの日
この前なんて、1日中事務所で仕事して、夕方に郵便局で登記書類を発送し、帰りにコンビニで晩ごはんを買っただけだった。声を出したのは「簡易書留でお願いします」と「温めお願いします」だけ。会話と呼べるほどのやりとりはゼロだった。帰って風呂に入りながら、「今日、俺、ひとことも笑ってないな」と気づいたときの虚しさと言ったらない。
外とつながっていない感覚に不安がよぎる
誰ともつながっていないと感じると、社会の外に取り残されているような気分になる。現実には登記の申請もしてるし、依頼者とも会っている。でも、それが「交流」と呼べるようなものなのか、だんだんわからなくなってくる。外とつながっている実感が持てない日は、自分が生きているという感覚すら薄れてしまう。
書類に囲まれていてもどこか「空白」を感じる
机の上は常に書類でいっぱいだ。完了書類、申請準備、補正対応、期限のある業務が山積みだ。それなのに、心の中にはぽっかり穴が開いているような空白感がある。「これを誰かと分かち合えたら」と思うけど、誰と?と考えてしまってさらに虚しくなる。仕事に追われているのに、なぜこんなに寂しいのか。
忙しさで埋まらない「孤独」という隙間
忙しさで気を紛らわせようとしても、結局「孤独」は隙間から染み込んでくる。それは業務終了後、ふとした瞬間に現れる。仕事をしている間は感じないのに、コピー機の音が止んだあと、不意に襲ってくる。「この時間を誰かと分かち合えたら」と思っても、分かち合う相手がいないという現実に気づいてしまう。
無機質な作業に疲弊する自分がいる
登記というのは感情がほとんど関与しない、形式の世界だ。だからこそ、どこかで感情を出せる場所が欲しくなる。だけど日常にそれがない。無機質な作業が続く中で、徐々に表情も声も平坦になっていく。誰かが「最近元気ないですね」と言ってくれたら、それだけで救われるのに。
独身であることを意識しすぎる夜
普段は気にしないふりをしているけれど、夜になるとやはり気になる。結婚していたら、家に誰かがいて、今日あったことを話して、くだらないテレビ番組を一緒に笑って観るんだろうな、なんて想像してしまう。ひとり暮らしの部屋でテレビだけが喋っている光景が、やけに堪える。
夕飯を買いに行ったスーパーで感じる疎外感
夕方のスーパーは家族連れやカップルで賑わっている。その中にスーツ姿で半額の弁当をカゴに入れる自分がいる。「ああ、俺はこの人たちとは別の時間を生きてるんだ」と感じて、なんとも言えない疎外感に包まれる。誰も何も言わないのに、勝手に孤立していく感覚。
家族連れを目にするとつい目をそらしてしまう
子どもをあやす夫婦や、お惣菜を選んでる高齢のご夫婦を見ると、どうしても目をそらしてしまう。「あの時間はもう手に入らないかもしれない」と思うのが怖いのかもしれない。ひとりであることを突きつけられる瞬間が、日常の中にさりげなく紛れ込んでいる。
弁当の温かさよりも心の冷たさが勝る日
帰宅して、電子レンジで温めた弁当を食べながら思う。確かにお腹は満たされる。でも、心は相変わらず空っぽだ。何かを語り合う相手もいない、テレビの音だけが部屋を埋めている。「今日はこれで終わりか」と思うと、涙が出そうになる。
誰かに話しかけたい衝動と諦めの間で揺れる
「誰かと話したいな」と思うことはある。でもその誰かがいない。友達に連絡するほどのことでもないし、家族とは距離がある。だから結局、黙って布団に入ってしまう。話しかけたい衝動と、それを抑える習慣との間で揺れる夜が、どんどん増えていく。
連絡先を開いても結局誰にも連絡できない
スマホを開いて連絡先を見る。名前はある。でも今さら何を話せばいいのか。連絡したら迷惑かもしれないという思いが先に立って、結局画面を閉じる。ひとりでいることを選んでるように見えて、実際は「誰にも選ばれていない」だけなのかもしれない。
ひとこと「今日しんどかった」で救われたいだけなのに
何も特別な会話がしたいわけじゃない。ただ、「今日しんどかったな」と言って、「だよな」と返してもらえるだけでいい。たったそれだけで人は救われる。けれど、それが言えないという現実の重みが、毎晩のように心にのしかかってくる。
それでも続ける理由を自分に問いかける
こんなにも孤独で、報われない日々を過ごしながらも、なぜ自分は司法書士を続けているのか。依頼者からの「助かりました」の一言のためなのか、自分のためなのか、時々わからなくなる。でも、どこかで「誰かの役に立っている」という感覚がある限り、踏ん張れるような気もしている。
誰かの役に立っているというかすかな実感
登記が無事に完了して、「ありがとうございます」と言われる瞬間。それがたとえ定型句だったとしても、心のどこかが温かくなる。ほんの一瞬でも「自分がここにいてよかった」と思えるから、不思議だ。それだけで次の日も事務所に向かえる。
ありがとうの一言で一日が報われることもある
「大変だったと思いますが、丁寧に対応していただいて助かりました」。そんな一言をもらった日は、どれだけ疲れていても少し笑える。その言葉があったから、一日分の「ひとり」が軽くなる気がする。結局、人は人の言葉でしか救われないのかもしれない。
わずかな共感が心をつないでくれる瞬間
依頼者がふとした雑談の中で「先生もお忙しいでしょうね」と言ってくれるだけで、少し気持ちがほぐれる。誰かが自分の状況を理解してくれているというだけで、孤独が少し和らぐ。共感とは、相手の言葉の奥にある「ちゃんと見てますよ」という気配なのかもしれない。
ひとりであることを選んだわけじゃないけど
気づけばひとりになっていた、というのが正直なところだ。選んだわけでも、望んだわけでもない。ただ、今はもうこの状況を受け入れていくしかないのかもしれない。強がるのではなく、弱さも含めて。
今はまだ、それでも進むしかないと思っている
どんなに寂しくても、やめてしまうわけにはいかない。依頼者が待っているし、登記は止まらない。だから今日も机に向かう。誰にも気づかれずに仕事をして、誰にも褒められなくても、自分で自分を納得させるように。
たまに漏れる弱音も生きている証だと思いたい
独り言のように呟いた弱音。それを誰も聞いていなくても、自分が自分に言ってあげているような気がする。「今日はきつかったな」「もう少し誰かと話したかったな」。そんな本音が出るだけでも、まだ心は動いている。生きているということなんだと思いたい。