湯気の向こうに誰もいない夜

湯気の向こうに誰もいない夜

一人の食卓に並ぶ味噌汁の重さ

仕事終わりに事務所を閉めて、暗い部屋に帰ってくる。照明をつけても気持ちは明るくならない。そんな夜に、小鍋で一人分だけ味噌汁を作る。この動作に、誰が意味を見出すだろう。手間をかけて一人分の具材を切って煮る。それでも僕は作る。食卓に並ぶ味噌汁が、自分の存在を確かめてくれるような気がするからだ。食事のたびに、自分がただ生きているだけの人間になっているような感覚に苛まれる。味噌汁の湯気だけが、どこか温かくて、切なくなる。

湯気だけが賑やかな夕食

味噌汁の湯気が立ち上る。それはまるで昔の記憶がふっと蘇るような瞬間でもある。誰もいない部屋で、一人で食卓につくとき、僕の目の前に広がるのは静寂だけだ。テレビもつけず、スマホも裏返して、ただ湯気と向き合う時間。にぎやかな食卓なんて何年も前の話だ。家族で囲んだ頃の食事風景も、いまやぼんやりとしたフィルムのようにしか浮かばない。あの頃は味噌汁の味にすら文句を言っていたのに、今ではその存在がこんなにも心を支えているなんて、誰が想像できただろうか。

昔は味噌汁なんて当たり前にあった

子どものころ、実家では毎日味噌汁が出ていた。母は「ご飯と味噌汁が基本」と言っていたが、当時はそれがうっとうしくて仕方なかった。部活帰りで腹が減ってるのに、まず味噌汁なんて回り道のように思えた。でも、今になってわかる。毎日繰り返されるそれこそが、暮らしの軸だったのだと。野球部で泥だらけになって帰ってきたとき、あの湯気の向こうに母の背中が見えた。それがどれだけ温かく、ありがたいものだったか、失ってからやっと気づく。まったく、気づくのが遅すぎる。

母の味が恋しいなんて言える歳でもない

この歳になって、「母の味が恋しい」なんて人前で言えるわけがない。司法書士として、いちおう人の前に立つ仕事をしている身としては、そんなことを言おうものなら軽く見られそうで怖い。でも本音を言えば、たまに味噌汁の匂いだけで泣きそうになるときがある。味噌の香りに、母の声が混じって聞こえるような気がしてしまう。誰にも言えないが、あの味をもう一度ちゃんと再現できたら、きっと少し心が楽になる気がする。けれど、あの味は二度と帰ってこない。

コンビニの味噌汁で済ませた夜の後悔

忙しい日には、ついコンビニで済ませてしまう。レジ横に置いてあるインスタント味噌汁。手軽で、袋を開けてお湯を注げば完成。けれど、飲んでみると何かが足りない。いや、足りないどころか、なにも感じないのだ。空腹は満たされるけれど、心は満たされない。何が違うのか。塩加減でも具材の種類でもない。ただ「誰かのために用意されたものではない」という空気が、そのまま口の中に広がるのだ。自分のために自分で作った味噌汁には、まだかすかに体温が残っている。

インスタントじゃ心までは温まらない

お湯を注ぐだけで完成する味噌汁。便利だし、味もそこまで悪くない。でも、それを飲み干しても、なぜか寒い。部屋の温度ではない、心の温度が下がっていくような気がする。人間って不思議なもので、ただの「栄養」だけじゃ生きていけないらしい。誰かが手間をかけて作ったもの、あるいは自分が自分のために丁寧に作ったものには、不思議と「温もり」がある。そんなこと、若い頃は一ミリも考えたことなかった。大人になるって、こういうことを実感する瞬間が増えていくことなのかもしれない。

「ちゃんと作る」ことの意味を考える

忙しい毎日。司法書士の仕事は書類との格闘で、精神的に削られる場面も多い。それでも、「ちゃんと作る」時間を持つことの意味を、最近になって感じるようになった。包丁でネギを刻む音、出汁を取る匂い、具材が煮える音。これらはすべて「生活している音」だ。機械的な一日を送る中で、唯一「人間らしさ」を取り戻せる時間かもしれない。だから、たとえ誰のためでもなくても、自分のために味噌汁を作る。ただ生き延びるのではなく、「ちゃんと暮らす」ために。

それでも明日はやってくる

こんな夜をいくつ越えてきただろう。孤独感や不安に押し潰されそうになった夜も、どうにか乗り越えてここまで来た。毎日は味気ないし、報われないことも多い。それでも、味噌汁の湯気に顔を近づけたとき、「まだ大丈夫」と思える瞬間がある。小さな希望かもしれないが、それで十分なのかもしれない。明日もまた、仕事がある。誰かのために働ける場所がある。ならば、自分のためにも一椀の味噌汁を作ってやろう。せめてそれくらい、自分を人間として扱ってあげたい。

味噌汁の湯気が教えてくれる生きるということ

湯気の向こうに誰もいない。でも、湯気が立ち上るだけで、なんとなく「今日も自分は生きていた」と感じることができる。味噌汁なんて、たかが味噌と具材と水だけど、その背後には「今日も頑張った自分」がいる。司法書士という仕事は、日々「他人の大事なこと」に携わる分、自分を置き去りにしやすい。だからこそ、自分のために味噌汁を作る。それはきっと、自分の命に「お疲れさま」と言う行為なのかもしれない。誰にも気づかれなくても、自分が自分を認める夜があってもいい。

一椀がつなぐ明日への気力

味噌汁一杯が、こんなにも心を支えてくれるとは思っていなかった。忙しさに追われていると、食事すら作業になってしまう。でも、ひとつひとつ具材を選び、手を動かし、火にかける。そんな流れの中に、自分の「生」が少しずつ染み込んでいく。生きるって、もしかしたらこういう地味な積み重ねなのかもしれない。派手な成功なんてなくても、一椀の湯気を見て「今日もよくやった」と思えるなら、それでいい。明日もまた、味噌汁を作って、自分を迎えてやりたいと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。