会話のあとに自己嫌悪する時間が長すぎる
話し終えたあと、ふとした沈黙のあとにやってくるのが「やってしまったかもしれない」という後悔だ。相手はなんとも思っていないかもしれない。それでも、ひとりになった瞬間に反芻が始まる。「あの一言、余計だったな」「もっと違う言い方があったのに」と、自分にダメ出しする声が頭の中で止まらなくなる。何年この仕事をしていても、うまくならないのが人とのやりとりかもしれない。会話に正解がないことはわかっているのに、自分の言葉だけが間違いに思えてくるのだ。
あんなこと言わなきゃよかったが毎回くる
誰かと別れたあと、エレベーターを待つ間や、車に乗り込んだ瞬間、「やっぱり言いすぎたな…」と心の声がこぼれる。会話中は自然に言葉が出ていたはずなのに、振り返ってみると、なんとも軽率に感じる。相手が年配だったり、気を遣う関係だったりすると、なおさらその声は強くなる。まるで反省会が自動再生されるように、会話の記憶が何度も再生され、自分への評価だけが下がっていく。口にした瞬間には気づかなかった後悔が、帰り道にずっしりと乗っかってくる。
ただ相づちを打っただけのはずなのに
「そうですね」と言っただけなのに、家に帰ってから「本当にそう思っていたのか?」と自問する。相づち一つとっても、「もっと誠実に聞いていればよかった」「話を広げるべきだった」と反省が始まる。私の場合、特に依頼者との会話では、内容よりも“温度”を気にしてしまう癖がある。「冷たく聞こえたかもしれない」と思えば、それだけで眠れなくなることもある。たった一言が、自分の評価を揺るがすように感じてしまうのだ。
相手は気にしてない それもわかってるのに
客観的に見れば、誰もそんな細かいことは覚えていないし、気にもしていないとわかっている。だが、わかっているからといって、感情がついてくるわけではない。「自分だけが気にしすぎてる」と何度言い聞かせても、夜になればまた思い出す。思考のクセというのは本当に厄介だ。理屈で抑えられるなら苦労はしない。むしろ、自分がその場にいた記憶すら相手は曖昧だったりするのに、こっちは数日間、心の中で延々と再生しては自己嫌悪している。バカみたいだと思いつつ、今日も同じことを繰り返している。
仕事の場面でもプライベートでも同じ
これは司法書士という仕事に限った話ではなく、プライベートでも同じことが起こる。親戚との会話、たまに飲みに行った友人とのやりとり、ちょっとした買い物の店員との雑談さえも、あとで思い出して「あの言い方でよかったのか」と頭を抱える。きっと、もっと軽やかに言葉を交わせる人間がいるのだろう。だが、私はそうじゃない。常に「言葉で傷つけていないか」「変に思われていないか」と気になって仕方がない。
依頼者との会話のあとにひとり反省会
司法書士として働く中で、依頼者との会話は避けられない。こちらは真剣にやっているつもりでも、ちょっとした説明不足や語尾のトーンで誤解を招いたのではと、あとでぐるぐる考え込む。特に感情が絡む相続や遺言の相談では、相手の不安を和らげられたのか、自分の説明で余計に混乱させなかったかが気になる。夜になって録音した音声を聴き直しては、「ここ、もう少し柔らかく言えたな…」と肩を落とす自分がいる。
事務員さんに対しても言いすぎたかもしれない
忙しい日の夕方、つい言葉がきつくなってしまったことがあった。事務員さんは「大丈夫ですよ」と言ってくれたが、それが余計に申し訳なかった。自分の感情を抑えきれずに誰かを傷つけてしまった気がして、その日は家に帰ってからも気分が沈んだままだった。「大人なんだから」「経営者なんだから」と思っていても、完璧にはなれない。そういう自分にまたがっかりする。繰り返されるこの反省が、もうクセになってしまっているのかもしれない。
なぜこんなに自分を責めるのか
振り返ってみると、子どものころから「失敗しないこと」「間違わないこと」を強く意識して育ってきた。元野球部だった私は、先輩の顔色を見ながら行動するクセが染みついている。声の出し方ひとつで怒鳴られるような環境にいたせいか、今でも人の反応に過敏だ。「失言したくない」「評価を下げたくない」という気持ちが強く、言葉を発したあとで「しまった」と思ってしまうのだ。体に刻まれた思考のクセは、なかなか修正がきかない。
昔から「空気読め」と言われて育ってきた
実家では、よく「空気を読みなさい」「相手の気持ちを考えて動け」と言われていた。決して悪いことではない。でも、そういう教育が行き過ぎると、「自分の感情を出さないこと」が正解のように刷り込まれる。だから、自分の意見を言ったあとに後悔する。「あの発言で場が凍っていたんじゃないか」「自分勝手だったのでは」と勝手に脳内で裁判が始まり、結果、毎回有罪判決を受けてしまう。気にしすぎる性格はこうして形成されたのだと思う。