このまま独りで老後を迎えるのかという不安がよぎる日

このまま独りで老後を迎えるのかという不安がよぎる日

誰にも言えない孤独の正体と向き合う時間

仕事がひと段落ついて、ふと気づけば事務所に残っているのは私だけ。事務員は定時で帰り、電話も鳴らず、外は薄暗くなっている。そんな静かな瞬間に、ふと胸の奥に不安が忍び寄る。このままずっと一人で、こんな時間を繰り返して、老後を迎えるんだろうか……と。司法書士としての日々は慌ただしく、感情を脇に置いてこなす業務ばかり。だけど、心のどこかで「誰かと生きる」ことに憧れていたのかもしれない。

仕事が終わると襲ってくる静けさの重み

昼間の忙しさが嘘のように、夜の事務所は静まり返っている。ファックスの受信音が妙に大きく聞こえる。かつて野球部で賑やかな部室にいた自分とはまるで別人。家に帰っても誰もいない、テレビをつけても話しかけてくれるわけじゃない。独立開業したときは、この静けさが自由の象徴に思えた。でも今は違う。静かすぎる夜は、孤独の音を増幅させていく。

一人暮らし歴二十年の夜は長い

司法書士試験に合格してからの生活は、ずっと一人だった。賃貸の1Kに始まり、今は小さな戸建てに引っ越したものの、その空間の大半は使われていない。冷蔵庫に入っているのは弁当と麦茶だけ。夜になるとYouTubeを流しっぱなしにしているが、動画が終わって無音になる瞬間、心にぽっかりと穴が開く。誰かと語らう夕食、そんな時間が恋しくなるとは、若い頃の自分には想像もできなかった。

テレビの音と弁当の味にすがる自分

最近は決まったスーパーの弁当ばかり食べている。味に飽きても、買いに行く元気もない。テレビの音量を少し大きめにして、人の気配を感じるようにしているけど、所詮は機械の音。誰かの温もりには代えられない。疲れた夜に、ただ「おかえり」と言ってくれる存在がいたら、こんなに苦しくはなかっただろう。そう思いながら、今日もまた冷えた唐揚げ弁当に箸をつける。

ふとした瞬間に湧き上がる漠然とした不安

別に病気でもないし、収入がなくなったわけでもない。それなのに、ふとした瞬間に胸がざわつく。コンビニのレジで年配のご夫婦を見かけたとき。駅のベンチで高校生カップルが楽しそうに笑っていたとき。自分だけが取り残されているような感覚。誰かに必要とされたいという気持ちは、年齢とともに消えるものではなかったらしい。

法務局の帰り道に考えること

法務局からの帰り道、自転車を漕ぎながら空を見上げたら、秋の雲が流れていた。風が冷たくなってくると、なぜか人肌が恋しくなる。誰かと一緒に歩いた記憶なんてほとんどない。いや、あったとしてもだいぶ昔の話だ。自分はこのまま独りで季節をやり過ごして、独りで老いていくのか。そんな考えが浮かぶたびに、ペダルが重くなる。

知人の訃報に感じる「順番」への意識

つい先日、司法書士会でお世話になっていた大先輩が亡くなったという知らせを聞いた。年賀状で「元気だ」と書いていたその人が、もういない。人生には順番があると誰かが言っていたが、いざ自分がその順番に近づいていると気づくと、足がすくむ。誰にも見送られずに、ひっそりと……そんな未来が、現実として想像できるようになってきた。

独身司法書士という肩書きの裏側

「独立してすごいですね」と言われることもある。たしかに、独立開業はそれなりに大変だった。でも、独立したことで余計に孤独が深まった気もする。司法書士として日々の業務をこなしながら、ふと「誰かと一緒に苦労する道もあったのかもしれない」と思うこともある。独身だから楽、なんてことはない。寂しさというコストは、見えないけれど確実に存在している。

結婚のタイミングを逃したのか逃げたのか

昔、ちょっとだけ付き合っていた女性がいた。でも、仕事の忙しさを理由に距離を置いた。その後も何度か「婚活」的な場に顔を出したけれど、司法書士という職業は会話のきっかけになりづらい。堅い、地味、なんか難しそう……そんな印象を持たれることが多い。結婚のタイミングを逃したのか、それとも「誰かと生きること」から逃げたのか、今となってはわからない。

野球部で培った根性と妙な遠慮癖

高校時代は野球一筋。声も大きかったし、ノリも良かった。だけど、大人になってからの自分は、なぜか遠慮ばかりするようになった。「相手に気を遣わせたら悪い」と思いすぎて、踏み込めないことが増えた。野球部で培った根性は、仕事には活きたけれど、人間関係では壁を作る材料になってしまったかもしれない。

合コンで浮く男の典型

一度、友人に誘われて合コンに行ったことがある。周囲はノリのいいサラリーマンたち。私はというと、業務の話ばかりしてしまい、完全に場違いだった。「登記って、なにそれ?」と笑われて、何も言えなくなった。笑いを取るのも苦手。モテるどころか、話題すらかみ合わなかった。自分が「普通の男性像」から外れてしまっていると、その場で強く感じた。

仕事に逃げた自覚と、それでも残った誇り

恋愛もうまくいかず、家庭も持たず、気がつけば仕事に打ち込む日々。仕事に逃げたのは自覚している。でも、その逃げ場があったからこそ、自分の人生は崩れずに済んだとも思う。困っている人の手助けをするたびに、誰かの役に立てたと実感できる瞬間がある。その誇りだけは、今でも自分を支えてくれる大切な支柱だ。

独立開業の決意とその後の現実

開業当初は、希望に満ちていた。自分の看板を掲げて、自分のペースで仕事をする。それが叶ったのに、何かが足りない。誰かに「お疲れ様」と言われる瞬間が、ないのだ。事務員さんとは最低限のやり取りしかなく、帰り際も「お先に失礼します」の一言。感謝はしている。でも、そこに“ぬくもり”を求めるのは違うのかもしれない。

事務所という小さな船の船長として

この小さな事務所という船を、何とか沈めないように漕いでいる。でも、船長って本当は孤独な役割なんだと最近気づいた。全責任を背負って、ミスもすべて自分のせい。だからこそ、喜びも達成感もあるのだけど、誰かと分かち合えたらどれだけ違っただろう。そんなことを思う夜は、ひときわ長い。

老後が見えてきてしまった今思うこと

45歳。老後という言葉が、他人事ではなくなってきた。貯金や年金の心配もあるけれど、それよりも気になるのは「誰と過ごすのか」という問い。ずっと一人で、誰にも看取られず、声もかけられず、静かに人生を終える。それが現実味を帯びてきたとき、初めて“人とのつながり”が人生の核心だと気づく。

老後資金や健康不安より怖いもの

老後資金?確かに大事。でも、それは計算すればある程度の目安が立つ。でも孤独は違う。計算も予測もできない、心の空白だ。健康に気を遣っていても、ふと倒れたときに連絡できる人がいない。その不安は、静かに、しかし確実に心を蝕んでくる。

何も話す相手がいないという現実

今日あったこと、明日の予定、昨日の疲れ。そんな些細なことを話す相手がいない。LINEの通知は仕事関係ばかり。誰かと「どうでもいい話」をできることの尊さを、今になって痛感する。話す相手がいないという事実は、心の温度をじわじわと下げていく。

人生における「孤独」という宿題

孤独は、解決すべき問題じゃない。受け止めて、付き合い方を学ぶものなのかもしれない。それでも、自分がやり残してきた「人との関わり」が、人生の最後に宿題として残った感覚がある。時間はもう戻らない。でも、残りの人生で、少しでも「誰かと」過ごす時間を持てたら。その思いが、今日を前向きに過ごす力になるのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。