誰かが帰りを待っていてくれたらと本気で思った日

誰かが帰りを待っていてくれたらと本気で思った日

独りで暮らすということ

45歳、独身、司法書士。地方で事務所を構えて十数年。毎朝出勤して、依頼をさばき、役所に走り、また戻ってくる日々。事務員の彼女は気が利いて頼もしいが、夕方には帰ってしまう。そこから先は、誰もいない事務所と、自分ひとりだけの暮らしが待っている。別に嫌いじゃない。静かな時間も悪くない。でもふと、家に帰ってドアを開けたときに「ただいま」に返事がないことに、胸の奥がズンと重くなる瞬間がある。

仕事が終わっても誰もいない部屋

登記の申請をオンラインで済ませた帰り道。コンビニで弁当を買い、アパートのドアを開けると、そこにはただの無音が広がる。パソコンのスリープ音だけがかすかに響き、テレビも点けっぱなしにはしていない。ああ、今日も終わったなと思うそのとき、気づく。「誰かが待っている」ことの温かさを、最後に感じたのはいつだったろうか。大げさだけど、心が少しずつ乾いていくのがわかる。

忙しさの隙間に感じる静けさの重さ

普段は慌ただしい。電話、来客、書類作成。体は動いているし、考えることも山ほどある。でも、ふと手が止まったとき、静けさがずしりと肩にのしかかってくる。昔は野球部で仲間に囲まれていた。応援の声やグラウンドの砂の匂いが、まだ記憶に残っている。あの賑やかさは、もう戻らない。今はただ、静かすぎる部屋でスマホを眺めて、どうでもいい動画を見て眠るだけの夜が続く。

テレビの音すら心に響かなくなった夜

バラエティ番組の笑い声が響くリビングで、一人きり。以前は「寂しさをごまかすための音」としてテレビをつけていたが、最近はそれすら面倒になった。笑い声が空虚に感じるのだ。そのとき初めて、「この部屋に、命がひとつあったら」と思った。それは人間じゃなくてもいい。犬でも猫でも、誰かが生きていて、こちらを見てくれていたら、それだけで違う気がした。

ペットのいる生活が浮かんだ瞬間

ある日、YouTubeのおすすめに出てきた柴犬の動画。飼い主の帰りを玄関で待つ姿に、不覚にも涙が出そうになった。あれはたぶん、僕が長い間、心の奥にしまっていた「誰かに待たれたい」という願いが反応したのだと思う。それから、ふとした瞬間に「ペットを飼うってどうだろう」と考えるようになった。冗談ではなく、真剣に。

CMで見た柴犬にやられた日曜日

ソファでぼんやりしていた日曜の昼下がり、流れてきた保険のCMに出てきた柴犬。ぴょこんと尻尾を振って、画面の向こうで見つめてきたその姿に、不意打ちを食らった。こんなに穏やかで、優しくて、ただそこにいてくれる存在って、すごくないか? 気づけばそのあと「一人暮らし 犬 飼う 注意点」と検索していた。自分でも驚くくらい、心が動いていた。

「犬でも飼うかな」と口に出してみたら

事務所でぼそっと事務員に「犬でも飼おうかな」とつぶやいてみた。彼女は笑いながら「いいですねー!毎朝散歩、大変そうですけど」と返してきた。その何気ない会話だけで、少し心が軽くなった気がした。人に言葉にすることで、自分の感情がはっきりしてきたのだ。ただの寂しさじゃない。たぶん、何かを変えたいという気持ちが芽生えはじめていた。

動物アレルギーでも心は揺れた

実は僕、軽度の猫アレルギーがある。でも不思議なことに、そんなことを差し引いてもペットへの思いは強くなるばかりだった。鼻がムズムズするより、心がじんわり温まるほうが大事だと、そんな感覚だった。きっとこれは、合理性だけでは説明できない感情なんだろう。損得を超えたところで、人は誰かとつながりたいと思う生き物なのかもしれない。

本気で考えたのは寂しさだけじゃない

ペットを飼いたいと思った理由は、単に寂しいからではない。むしろ「責任を持って何かを世話する」という感覚を、もう一度取り戻したいという思いもあった。日々の仕事は大切だけど、やりがいばかり追いかけていると、どこか人としての感覚が擦り切れてしまう気がする。犬でも猫でも、毎日の小さなやり取りが、自分を少し人間らしくしてくれるのではないかと思った。

生き物の命を預かることへの躊躇

とはいえ、命を預かるというのは軽いことじゃない。法律の世界に生きる者として、責任の重さには敏感なほうだ。もし自分に何かあったら。入院でもしたら。災害が起きたら。そんな「もしも」を考えて、ペットのいる生活に踏み出すのをためらってしまうのも事実。甘えられる家族もいない。そうなるとやっぱり、「今じゃない」と思ってしまう自分もいる。

散歩の時間すら捻出できるのか問題

毎朝8時前には事務所に入って、帰宅は20時近く。クライアントからの緊急連絡が入れば、それも変動する。そんな生活で、果たして散歩の時間を確保できるのか。朝に30分、夜にまた30分? いや、今ですら洗濯物がたまりがちなのに? そんな現実的な問題が、気持ちの火を消そうとしてくる。でも、それを乗り越えたら何か変われるんじゃないかという希望もある。

留守中の対応を考えると二の足を踏む

長期の外出や出張は少ないとはいえ、急な法務局対応や出張がまったくないわけじゃない。そういうとき、ペットはどうするのか。預ける? ペットホテル? でも地方では数が限られている。誰かに頼めるほどの人間関係も正直ない。その不安が、「やっぱり自分には無理なんじゃないか」と心を引き戻す。思い切りたいのに、足が前に出ない。情けないけど、それが現実だ。

それでも心が少し前を向いた理由

ペットを飼うかどうかの結論はまだ出ていない。でも、こうして真剣に考えたことで、少しだけ気づいたことがある。「誰かがいてくれる」という想像が、思った以上に自分を支えてくれるのだということ。実際に飼うかどうかに関係なく、その思いが日々の励みになっているのかもしれない。ペットが教えてくれたのは、優しさを欲する心がまだちゃんと自分にあるという事実だった。

誰かが待っていてくれるという想像

朝、出かけるときにしっぽを振って見送ってくれる誰か。夜、帰ってきたら駆け寄ってくれる誰か。そんな存在がいるというだけで、仕事の重さも少しだけ軽くなる気がする。それは甘えかもしれない。でも、人は誰かに必要とされることで、自分を保っていけるのかもしれない。今の自分には、それが欠けていたんだなと素直に思う。

無償の存在がいるという安心感

犬や猫は、こちらが疲れていても、愚痴を言っても、見放したりしない。ただ黙ってそばにいてくれる存在。それは、お金でもキャリアでも得られないものだ。何も言わなくても寄り添ってくれる相手がいるという安心感は、人が人として生きるうえで、本当に大事なものだと最近になって思うようになった。司法書士という職業柄、人の「終わり」に向き合うことが多いからこそ、そう感じる。

仕事だけじゃない時間ができるかもしれない希望

ペットを迎えることで、毎日の生活が少し変わるかもしれない。朝の散歩、エサの時間、遊び相手になる時間。面倒かもしれないけれど、その「面倒」こそが、仕事だけでは満たせない部分を満たしてくれる気がしている。独りで生きていくことに慣れてしまった自分が、もう一度誰かと関わろうとするきっかけ。もしかしたら、それが「ペットでも飼おうかな」と思った本当の理由なのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。