「ちょっとだけお願い」が心に刺さる日がある
「ちょっとだけお願いなんだけどさ」──この言葉、なぜこんなにも重たく響くのか。若いころは頼られることが素直に嬉しかった。でも、今は違う。自分の中に余裕がなくなってきたのかもしれないし、「ちょっと」のつもりが、ちっとも“ちょっと”で終わらないことを知っているからかもしれない。仕事が詰まった朝にこの一言を聞くだけで、胃の奥がズーンと重くなるのだ。
“ついででいいから”の一言が、妙にこたえる朝
「出たついででいいから」「近いんでしょ?ついでに寄ってもらえる?」──その“ついで”って、誰のスケジュールで話してるんだろう。ある日、登記書類を法務局に届ける途中、知人に「帰りにこの書類も出してくれる?」と頼まれた。正直、それだけなら5分で終わる。でも、気持ちがザワつくのは、“ついで扱い”されてること自体なんだよね。自分の予定に割り込む形でお願いされるたびに、自分の時間が軽く扱われてる気がしてくる。
頼まれることが嬉しかった時代もあった
駆け出しの頃は、どんなお願いも「頼りにされてる証拠だ」と前向きに受け取っていた。どこかで「信頼=仕事」だと思い込んでいたし、誰かの役に立てることに喜びを感じていた。だけど今は、頼まれごとの陰に「都合のいい人扱い」が透けて見える。年齢とともに“断ることの必要性”も身に染みてきた。
なぜ今は重く感じるのか?
責任の重さ、仕事量の増加、体力の衰え……要因は多い。でも一番は、孤独だと思う。全部ひとりで回している現実の中で、「ちょっと」でも追加されると、一気にバランスが崩れる。小さな一言が、想像以上の負荷になる。頼まれるたびに、自分の価値が「都合のいい人」に引き下げられているようで、気づけば心がすり減っていた。
相手は軽くても、こっちは限界ギリギリ
「それぐらい、できるでしょ?」と軽く言われる。こっちは毎日ギリギリの綱渡りをしているのに、相手の言葉には自分の余裕なんて存在していない。自分だって断りたい。でも、関係性を壊したくない。事務所に戻ってから「あんなこと、引き受けるんじゃなかった」とひとり呟く。
スケジュールはいつもパンパン、余裕なんてない
月末の決済ラッシュ、謄本請求、登記の補正、依頼人からの電話──毎日が“予想外”の連続。時間の余白なんてほとんどない。そんな中で「ちょっとだけお願い」されると、すべての歯車が狂い出す。たった15分が、1日をガタガタにすることだってある。
一人事務所の“ワンオペ感”に追い詰められる
事務員さんがいるとはいえ、責任の大部分は自分にのしかかってくる。相談も、調査も、判断も、実行もすべて一人でこなす日々。そんな生活の中で、さらに「ちょっとお願い」が重なると、もう何にもしないで家に帰りたくなる。誰かと分かち合えるだけで、どれだけ救われるか。
「小さな頼み」が積もる日々
1つ1つは小さな頼みでも、積もれば山となる。まるで机の上の書類のように、見ないふりをしていても、いつの間にか山になっていて圧迫感がすごい。しかも頼みごとには“納期”がないから厄介だ。こっちのリズムが全部崩れる。小さな重荷は、じわじわと体力と気力を奪っていく。
小さなお願いが大きな疲労になる不思議
「郵便ポストに入れておいて」「LINEだけ送っておいて」「この資料、ちょっと目通してくれる?」どれも時間にして数分。だけど、なぜだか疲れる。それはきっと、やるべきタスクの合間に入ってくるから。集中が途切れるたびに、脳のリセットが必要になって、それが積み重なっていく。
依頼主の無邪気さにちょっと嫉妬してしまう
悪気がないのは分かってる。でも、あまりに無邪気にお願いされると、ふと「こっちは必死なのに」と思ってしまう。自分にもそんな余裕があったら、もっと人生違ってたかな……なんて妄想してしまうこともある。心が疲れてると、余裕のある人を見るだけで羨ましくなってしまうのだ。
「どうせ一人でしょ?」という無意識の圧
独身で、地方で、ひとりで事務所を回してる──そんな自分に対して、「頼みやすい人」認定されていることに気づくときがある。誰も悪意があるわけじゃない。でも、気づかないうちに“便利な人枠”に入れられてる感覚がつらい。お願いされるのは嫌じゃない。でも、期待されすぎるのはしんどい。
断れない自分が一番しんどい
一番の問題は、断れない自分自身。「いや、それはできません」と言えば済む話。でも、その一言がどうしても言えない。気まずさ、罪悪感、あとからくる後悔──それが怖くて、つい引き受けてしまう。結果、自分の首を絞めている。
“いい人”をやめたいけどやめられない
“いい人”でいることが、どこかで自分の支えになっていた。誰かの役に立っている感覚が、存在意義になっていた。でも、それだけじゃやっていけないと気づいたのに、やめ方が分からない。結局、また笑顔で「いいですよ」と言ってしまう。
断ったあとの気まずさを想像して自爆する
「断ったら、もう頼まれなくなるかも」「嫌な人だと思われるかも」──そんな想像が脳内を支配して、実際に断る前から疲れてしまう。自分が勝手に気を回しすぎて、自分でしんどくなってる。分かってるのに、止められない。
「頼られること」と「搾取されること」の境界線
誰かに頼られることは悪いことじゃない。むしろ、それが生きがいになっていた時期もある。でも、気づかないうちに「便利な人」になっていたとしたら? 頼られてるんじゃなくて、搾取されてるんじゃないか? 境界線が曖昧になると、自分の輪郭まで見失いそうになる。
人付き合いの中で“消耗”するタイプです
相手の顔色をうかがい、言葉を選び、空気を読む。そんなことに慣れすぎて、どこかで心が消耗していく。たまに「自分って、何のためにここにいるんだろう?」と空虚になる。誰かの期待に応え続けて、自分自身がどこかへ行ってしまいそうになる瞬間がある。
気づいたら、相談係・便利屋・雑用係
「ちょっと相談いい?」「この書類だけ……」「この人紹介して」──全部、自分に集まってくる。気づけば仕事だけじゃなく、プライベートまで“便利係”。自分が便利すぎるのか、断れなさすぎるのか。とにかく、この立ち位置がつらい。
やさしさが仇になるという理不尽
やさしくすることで、誰かが楽になる。でも、そのやさしさが、自分の首を絞めていることもある。「頼みやすい人」は、裏を返せば「断らない人」。その役割を期待されていると気づいたとき、やさしさって何だろうと考えてしまう。
本音を吐き出す場所がどこにもない
愚痴を言いたい時に、誰に話していいか分からない。家族もいない。友人とも疎遠。話せば話すほど「弱音吐いてる」と思われそうで、結局一人で抱え込む。夜中にスマホのメモ帳に愚痴を書いて、朝になって全部消す。そんな夜が増えてきた。
愚痴を言ってもいい相手がいない孤独
「忙しい」と言えば自慢に聞こえ、「つらい」と言えば面倒くさいと思われる。そんな風に思ってしまって、何も言えなくなる。SNSも、本音を出せる場所じゃない。本音を吐き出せる相手がいないって、こんなに苦しいものなんだなと感じている。
「大丈夫?」って聞かれたくてたまらない
強がっているけど、誰かに「大丈夫?」って聞いてほしい。でも、聞かれない。たぶん、見た目が元気そうだから。気づかれないようにしている自分が悪いのかもしれない。でも本当は、誰かに一言だけ「頑張ってるね」って言ってもらえたら、それだけで救われる日もある。
それでも“ちょっとだけ”応え続ける理由
結局、また頼まれると断れない。しんどいと思いながらも、「それぐらいなら…」と応じてしまう。なぜか?それはたぶん、まだどこかで“誰かの役に立ちたい”と思っている自分がいるから。めんどうな性格だと思う。でも、そうやってしか生きられない。
誰かの役に立ちたい気持ちは、まだ残ってる
感謝の言葉をもらえると、やっぱり嬉しい。頼ってくれる人がいるというだけで、孤独がちょっとやわらぐ。誰かの生活の中に、自分がほんの少し関われる。それだけで「今日も頑張るか」と思える。めんどくさいけど、それが人との関係なのかもしれない。
仕事がすべてじゃないけど、今はそれしかない
結婚もしていない。趣味もあまりない。だからこそ、仕事が生活の中心になっている。でもそれも悪くないと思うこともある。仕事を通して誰かと関われることが、今の自分にとっての救いになっているのは確かだ。
モテない男の居場所は、たいてい仕事場だ
家に帰っても、誰もいない。話す相手もいない。じゃあ、どこに自分の居場所を見つけるかといえば、やっぱり仕事場になる。頼まれることが嫌でも、そこにしか自分の価値を感じられないこともある。だから今日もまた、「ちょっとだけお願い」に応えてしまうのかもしれない。
「ありがとう」の一言が救いになる日もある
すべてが報われるわけじゃない。でも、たまに心のこもった「ありがとう」をもらうと、それだけで今日の疲れが少し軽くなる。たった一言で、人間って救われるんだなと実感する。だから、まだもう少し、頑張ってみようと思える。