自分を犠牲にする仕事観に疲れた
「誰かの役に立ちたい」——この気持ちが、司法書士としての原点でした。相談に来られる方の不安を取り除くことができたときの「ありがとうございます」は、まさに自分の存在意義を感じる瞬間でした。でもいつからか、それが「当たり前」になっていったんです。喜んでもらえて当然、感謝されて当然。そんな空気の中で、自分の疲労やストレスは置き去りになっていました。誰かを幸せにしようとすればするほど、自分がすり減っていくような感覚。本当にこのままでいいのか、最近はそんな問いが頭から離れません。
誰かのために頑張ることが当たり前だった
学生時代の野球部では「チームのため」が合言葉でした。自分より仲間を優先する、それが美徳とされていた。社会に出て、司法書士になってもその価値観は根強く残っていて、依頼者のため、事務員のため、地域のためと、自分のことは後回しにしてきました。でも、それって本当に正しいんでしょうか。気づけば、食事も睡眠も乱れて、趣味なんて忘れたまま。「誰かのため」が行き過ぎると、「自分の犠牲」が美談になってしまう。それを支えにしてしまった自分にも、今は苦笑いです。
人に喜ばれることが嬉しかったはずなのに
昔は、登記が無事に終わって「助かりました」と頭を下げられるのが本当に嬉しかった。でも、今では「やっと終わった……」と内心ほっとするだけ。喜ばれることに疲れてしまったのかもしれません。何かを期待されるたびに、応えなきゃというプレッシャーが先に来てしまって、心の余裕がなくなるんです。感謝されるたびに「まだ頑張らなきゃ」と思うようになってしまった自分が、少し情けなくて。嬉しさよりも重荷の方が大きくなってしまったのが、悲しいです。
いつの間にか「ありがとう」が重荷になった
「ありがとう」と言われることが、最近では恐怖になっています。期待されることで、次はもっとやらなきゃと、自分で自分を追い込んでしまう。人に頼られることが怖い。昔の自分なら想像もできなかった感情です。「そんなに無理しなくていいですよ」と言われたいのに、実際はどんどん頼まれる。誰にも責められていないのに、自分だけが勝手に背負い込んでいるような気がして。誰かの幸せを叶えたいと思っていたのに、自分が不幸せになっていたら本末転倒ですよね。
気づけば自分がどんどん空っぽになっていた
ある日ふと、事務所の壁時計を見ながら、「あれ、今日って何曜日だっけ」と思いました。毎日同じような書類を見て、同じような対応をして、同じような電話に出る。ルーティンは崩れていないはずなのに、心が追いついてこないんです。これはマズい、と本能的に思いました。何をしても心が動かない。楽しいも悲しいも、感じなくなってきていた。それが一番怖かったです。
朝が来るのが怖い日々
昔は朝が好きでした。新しい一日が始まるという感覚があったから。でも今は、朝になると憂鬱がのしかかってくる。カーテンを開けるのがしんどい。机の上の書類を見ると、吐き気がするような気分になる。司法書士という職業が嫌いなわけじゃない。でも、その重たさに負けそうになるんです。こんなこと、誰にも言えませんでした。最近ようやく「それでもいい」と自分に言えるようになってきましたが、それまでずっと一人で抱えていました。
業務は回るが心が回らない
仕事はちゃんとこなしています。登記も、相続も、裁判所書類も、遅れたことはほぼない。外から見れば「順調そう」に見えるかもしれません。でも、それと心の健康はまったく別です。心が止まっているのに、体だけが動いている。まるで壊れかけの機械のような感覚です。そんなとき、「もう一人雇えば?」と軽く言われることもあるけど、簡単な話じゃない。責任を持って雇うって、そんな軽いことじゃないんですよね。
一人事務所の現実と限界
開業当初は、自分一人で全部できることに誇りを感じていました。でも、それが何年も続くと話は別です。誰かに相談したくても、隣に誰もいない。判断も決断も全部自分。しかも責任だけは増えていく。事務員さんは確かにいてくれて助かってるけど、やはり最終判断は全部自分にのしかかる。これは、一人親方の宿命かもしれません。
事務員がいても結局自分が背負う
事務員さんには本当に感謝しています。でも、専門的な判断は結局全部自分がしなければならないし、急な対応は自分が動くしかない。事務員さんが風邪を引けば業務はストップ。自分が倒れたら完全停止。そんなギリギリのバランスで回している現実に、時折ゾッとすることがあります。誰かに「代われる存在」がいないことの重さ。経営の責任、専門職の責任、その両方を一身に背負う苦しさは、なかなか理解してもらえません。
抱えすぎると潰れるのは自分
自分でやった方が早い、そう思ってずっと仕事を抱えてきました。でも、その積み重ねがどれだけ危ういか、最近ようやく身に染みてきました。ある日、登記のミスをギリギリで発見したとき、身体が震えました。誰かに頼っていれば防げたかもしれない。人に任せるって、勇気がいるんですよね。でも、そうしないと自分が壊れてしまう。それをようやく実感しました。
分け与える余裕がないときどうするか
最近は、人に優しくする余裕すらないと感じます。ちょっとした依頼にもイラッとしてしまう。昔なら丁寧に説明していたはずなのに、「もう調べてきてよ」と言いたくなってしまう。そんな自分が嫌で、さらに落ち込む。負のスパイラルです。自分を満たしていないと、他人に与えることはできない。当たり前のことなのに、なぜか見落としていました。
誰かの人生に関わる責任の重さ
司法書士の仕事は、表に出にくいけど、人の人生に深く関わるものです。登記や相続、成年後見や裁判所関係の書類。どれも失敗できないし、間違えたら相手の人生に傷がつく。だからこそ、緊張の糸はいつもピンと張ったまま。寝ているときすら頭のどこかが覚醒していて、夢にまで書類が出てくることもあります。
失敗が許されない職業の宿命
普通の会社なら、少しぐらいのミスは謝って終わるかもしれない。でも、司法書士は違う。登記のミス一つで、不動産の価値が下がることもあるし、相続で誰かの人生が変わってしまう。そういうプレッシャーが、年々強くなってきました。若い頃は「慎重すぎる」と笑われたけど、今では「慎重」じゃなければこの仕事はできないと断言できます。
頼られることが怖くなる瞬間
「先生にお願いしたい」と言われた瞬間、喜びよりも怖さが勝つときがあります。期待されることが、プレッシャーにしか感じられない日があるんです。「この人の人生がかかってる」と思うと、手が震えるような感覚になる。プロである以上、それでもやるのが仕事だとはわかってます。でも、人間なんだから、怖くなることもある。それを誰にも言えないのが、一番つらいです。
真面目すぎる自分が首を絞める
元々不器用で、手を抜くのが下手な性格です。適度に力を抜くことができれば、もっと楽に生きられるのかもしれない。でも、どうしても「ちゃんとやらなきゃ」と思ってしまう。たまには適当でいいのに、それができない。真面目にやることが正しいと思ってたけど、最近は「それで潰れたら意味ないじゃん」と自分にツッコミを入れたくなることもあります。