登記の重み、それは単なる手続きじゃない
「登記」と聞いて、どれだけの人がその重さを想像できるだろうか。紙と印鑑とオンライン申請、そうした「事務手続き」のように思われがちだが、その裏には依頼人の人生が乗っている。離婚による財産分与、生前贈与、相続争いの末の名義変更…。司法書士として、私は何度も「一つの登記が家族の未来を左右する」現場に立ち会ってきた。人間関係のドロドロ、感情のぶつかり合い。それを表に出さず、淡々と処理するのがこの仕事なのだ。
書類一枚に人生が乗っかってくる
先日も、老夫婦の土地の名義変更を担当した。夫が長年かけて築いた財産を妻へ生前贈与したいという申し出だったが、息子夫婦との間に微妙な空気が流れていた。「母が全てを受け継いだら、将来はどうなるのか…」と不安を口にする息子。表情は穏やかでも、内心では複雑な思いが渦巻いているのが見えた。登記完了後、「これで良かったんでしょうかね…」とつぶやいた奥様の言葉が、今も忘れられない。私たちは、感情の出口を持たない人たちの「代弁者」でもあるのだ。
「たかが登記」なんて言われるたびに
「そんなの、ただ書類出すだけでしょ?」──この言葉に、何度心が折れそうになったか分からない。登記は一歩間違えれば権利関係をぐちゃぐちゃにしかねない繊細な作業だ。それを「作業」や「手間」扱いされると、仕事の価値を否定されたように感じてしまう。しかも、その一言を口にするのは、往々にして報酬の支払いを渋る依頼人だったりする。「ただ出すだけの書類」を、私は何日もかけてチェックし、法務局と交渉し、最後まで神経をすり減らしているのに…。
法務局に行くたび、胃がキリキリする
「今日もまた何か言われるんじゃないか」と思いながら、法務局の窓口に向かう。チェックが厳しい担当官の曜日は、つい避けてしまいたくなる。申請書の書式一つ、添付書類の順番一つで指摘が飛ぶ。もちろん間違えた自分が悪い。でも、時には「運」で決まるような基準にぶつかることもある。胃薬をカバンに忍ばせて、毎回あの窓口に並ぶ姿は、きっと傍から見たら滑稽かもしれない。それでも、間違いのない登記を出すため、今日も胃を痛めながら出かけていく。
ミスは許されないのに、完璧なんて無理
この仕事、やればやるほど「人間であること」が許されないように感じる。一つの数字、一つの名前、一つの住所。どこかで一文字間違えたら、それは「ミス」であり、司法書士の責任になる。だからと言って、完璧を求め続けるのは心を蝕む。朝から晩までチェックしても、「これで大丈夫だろうか」という不安は拭えない。自信と不安の間を揺れながら、毎日書類と向き合っている。
「完璧主義」で潰れる司法書士たち
私の知人にも、数年前にこのプレッシャーで体を壊して事務所を畳んだ司法書士がいる。几帳面で、人のミスも自分のミスも絶対に許さないタイプだった。日々の業務に追われるうち、気づけば不眠・不安・胃痛でボロボロになっていた。最終的には「もう怖くて登記ができない」と言い残して廃業した。真面目な人ほど壊れていく――それが司法書士という仕事の現実でもある。
一文字の間違いが、人生の汚点になる恐怖
一度だけ、相続登記で住所表記の丁目を間違えたことがあった。気づいたのは登記完了後。修正には法務局での訂正手続きが必要で、依頼人には謝罪、再度の押印と郵送…。その一件以来、何度も何度もチェックする癖がついたが、同時に「ミスへの恐怖」も植え付けられた。誰かに責められる前に、自分で自分を責めてしまう。そんな自罰的な日々が、続いている。
修正申請の電話が、トラウマになっていく
電話の着信音が鳴るたび、「修正かもしれない」と胸がざわつく。実際にそれで「登記済証に誤記がある」と連絡が来た時は、手が震えて受話器がうまく握れなかった。すぐに謝罪、手続きの案内、書類の再提出と段取りを組む。それを「ミス一つでここまで謝らないといけないのか」と感じたこともあるが、それが現実だ。登記の「重さ」は、まさにこの瞬間にズシリと肩にのしかかる。
本当は、誰かに「わかるよ」と言ってほしい
愚痴をこぼす場所すらない日々。事務員さんに弱音を吐いても、「先生、頑張ってくださいね」と言われるだけで、根本的な救いにはならない。共感してもらえる仲間がほしい。ただそれだけなのに、それすら得られない孤独。もしこの記事を読んでいるあなたが同じような思いを抱えているなら、こう伝えたい。「自分だけじゃない」と。
愚痴をこぼせる相手がいるだけで救われる
一度、同業の司法書士仲間と飲みに行ったときのこと。「登記って、怖くね?」という一言から始まり、皆が次々と「俺も胃やられた」「朝起きた瞬間から不安」「法務局の名前を聞くだけで鳥肌が立つ」と言い出した。私はその時、初めて自分が「普通」だったと知った。重圧に苦しんでいるのは自分だけじゃないと分かるだけで、肩の荷が少しだけ軽くなる。仲間の存在は、何にも代えがたい。
士業同士のつながりが、最後の防波堤
横のつながりを軽視してはいけないと、年々感じる。研修会や会合での何気ない会話の中に、励ましやヒントが転がっている。直接的な救いにはならなくても、「またやっていこう」と思える小さな希望がそこにある。孤独な士業だからこそ、同じ土俵で闘う者同士の共感こそが、生きる力になる。
励ましよりも「共感」が沁みる日がある
「頑張ってください」よりも、「自分も同じです」という一言の方が、何倍も心に沁みる日がある。正論やポジティブな言葉が逆にしんどい時もある。そんなときは、黙って隣に座ってくれるだけで救われる。この仕事を続ける限り、重さは消えない。けれど、分かち合える誰かがいる限り、なんとか前に進める――そんな気がしている。