自分のやり方に確信が持てないまま日々が過ぎていく
気がつけば10年以上、地方の司法書士として一人事務所を構えてやってきた。しかし、今でもふと「自分のやり方って合ってるのか?」と不安になることがある。登記手続き一つをとっても、やり方は人によって微妙に異なるし、誰かに答え合わせをしてもらえるわけでもない。書類を揃えて、提出して、補正もなく完了すれば「まあ良かったんだろう」と思うしかない。それでも「もっと効率のいいやり方があったんじゃないか」「もっと丁寧な対応ができたのではないか」と、自問が終わらない。気づけばそんな悶々とした気持ちのまま、次の仕事に取り掛かっている。
そもそも正解なんてあるのかと考え出すときりがない
大学の頃、野球部でやたらと型にうるさい先輩がいた。「これが正解だ」と言い切るその姿勢は当時から疑問だったが、仕事を始めてからその気持ちが少しわかるようになってきた。何かひとつ「こうすればいい」があれば、どれだけ楽だろうか。だけど、現実はもっと曖昧で、依頼者によって求められる対応も違うし、法務局の担当者によっても微妙なニュアンスが変わる。正解というより、その都度“よりベター”を選び続ける感覚。とはいえ、それって本当に正解に近づいてるのか?と不安になる瞬間が何度もある。
先輩もいない相談相手もいない一人事務所の限界
大手の司法書士法人にいれば、近くに聞ける先輩がいるのかもしれない。だが、私は地元に戻って一人で事務所を立ち上げた。事務員は雇っているが、専門的な話を共有できる相手ではない。電話で他の司法書士に聞くこともあるが、そもそも「こんなこと聞いてもいいのか」と遠慮してしまう自分がいる。結局、自分の経験と調査だけが頼りになって、何かあってもすべて自己責任。正直、孤独だ。
こんなときどうしてたって聞ける誰かがほしかった
前に会社設立の登記で、商号の文字使いを巡って法務局とやりとりが難航したことがあった。最終的には先方の言い分に従って修正したが、あのとき、「あの先生だったらどうしたかな?」と何度も思った。誰かに「俺もそうしたよ」と言ってもらえたら、どれだけ救われただろう。自分の判断を後押ししてくれる存在が、今も昔もずっと欲しかったのかもしれない。
自信のなさをごまかすように仕事を詰め込む
最近はスケジュールがいっぱいになるように、意識して仕事を詰め込んでしまう癖がある。「忙しい=順調」と思い込みたいのだ。だけどそれは、実のところ、自信のなさを隠す手段に過ぎない気がしている。立ち止まると不安が顔を出すから、動き続けていたい。それが今の自分の働き方になっている。
スケジュール帳が埋まっていると安心してしまう
手帳にぎっしりと予定が書かれていると、なぜか安心する。「俺、ちゃんとやれてる」と思える気がするのだ。けれど、それは本当に自分にとって意味のある仕事か?と問われると、自信を持って頷けない案件もある。ただただ“埋めるために”予定を詰めていると感じる日もある。
忙しさでごまかしてきたものの代償
忙しさにかまけて、自分の感情にフタをしていたのかもしれない。疲れてくると、ふと空虚になることがある。そんなときに限って、家に帰っても誰もいない現実が重たくのしかかる。「これで良かったのか?」という問いが、深夜の机の上で再び顔を出すのだ。
正解を求めすぎて自分を追い詰めてしまうことも
司法書士という仕事は、法に基づいて行うからこそ「正しさ」が常に求められる。けれど、その「正しさ」は時にグレーで、ケースバイケース。だからこそ、正解を求めすぎると自分を苦しめることになると気づいた。でも、そう思いながらも、やっぱり間違いたくないのが本音だ。
間違いを恐れすぎて前に進めなくなる瞬間
ある相続登記で、評価額の確認に手間取ったことがある。万が一にも誤りがあってはならないと思い、必要以上に確認作業に時間をかけてしまった。結果、依頼者に「進みが遅い」と言われてしまい、信頼を損ねかけた。完璧主義が足かせになることもあると、そのとき強く感じた。
責任の重さが判断力を鈍らせる
登記にせよ、供託にせよ、こちらの判断ミスが後のトラブルを生むことは珍しくない。それを知っているからこそ、一つ一つの判断に慎重になる。けれど、慎重になりすぎて動けなくなってしまうのも問題だ。責任を感じるのは当然だが、それが自分の首を絞めるような働き方になってしまっては意味がない。
それでも押印しなければいけない苦しさ
結局、最終的に書類に押印するのは自分だ。その印は、私の責任の証でもある。だからこそ、迷いが残る状態で押印する瞬間は、心の中で「大丈夫か?」と叫んでいる。でも、誰かが背中を押してくれるわけでもない。自分で決めて、自分で押すしかない。それが一番しんどい。
自分のミスで誰かの人生が変わるというプレッシャー
登記の世界では、小さなミスが大きな影響を与えることがある。住所表記の誤り一つでも、後々の手続きに支障が出る可能性がある。そう考えると、一つ一つの作業に異様な緊張感を持ってしまう。依頼者の大切な手続きだからこそ、間違いは許されない。そのプレッシャーは常にある。
だからこそ慎重になるけど限界もある
慎重さは重要だが、それが過ぎればスピードが失われる。そしてスピードの遅さは、信頼を失うことにも繋がる。バランスが難しい。安全と効率の間でいつも揺れながら、どこかに「限界」を感じてしまうのだ。
どこまでが必要でどこからが過剰なのか
「この確認は本当に必要か?」と自問することが増えた。リスクを取らなければ前に進めないこともある。だけど、それが過剰な不安からくる確認作業なのか、合理的な防止策なのか、自分でも分からなくなることがある。まさにその判断こそ、誰かに教えてほしい“正解”なのかもしれない。
答えのない毎日だからこそ小さな納得を積み上げる
司法書士という仕事に“完全な正解”はない。でも、だからこそ、自分なりの納得を積み上げるしかない。日々の中で得られる依頼者の一言や、自分の中での小さな成長。それが、答えのない世界で進むための道しるべだと思っている。
依頼者のありがとうが唯一の答え合わせ
一度、かなり複雑な相続案件を担当したときのこと。完了後、ご家族から「本当に助かりました」と言われて、思わず泣きそうになった。その瞬間、「これでよかったんだ」と心から思えた。仕事の成果を誰かが言葉にしてくれること、それが何よりの答え合わせになるのだ。
それすらも社交辞令かと疑ってしまうときもある
ただ、ひねくれた性格のせいか、「ありがとう」も「助かりました」も、社交辞令じゃないかと疑ってしまう自分がいる。過去に一度、感謝されたあとに文句を言われた経験があってから、素直に受け取れなくなってしまった。でも、それでも受け取るしかない。感謝の言葉は、きっと本心なんだと信じたい。
それでもまた次の仕事へ向かう理由
どれだけ不安でも、迷っていても、仕事は待ってくれない。印鑑を押すたびに「これでいいのか」と思いながらも、結局また次の書類に手を伸ばしている。たぶん、それが自分なりの“正解のない日々”の歩き方なんだと思う。小さな納得を積み重ねながら、今日も机に向かっている。