朝一番の来訪者
事務所のドアが開いたのは、まだコーヒーの湯気も立ち上る前だった。 男は分厚い封筒を抱えて無言で座り、テーブルに静かにそれを置いた。 こういうときに限って、サトウさんは机から一切目を離さない。
書類の山に紛れた違和感
封筒の中には土地売買に関する契約書一式が入っていた。 だが、署名欄と印影の位置にわずかなズレがある。 わずか1ミリにも満たないが、司法書士の勘は騙せない。
サトウさんの無言の視線
彼女は黙って印影をスキャナーにかけていた。 何も言わずに画面に向かってクリックを続けているその後ろ姿が、妙に頼もしい。 「ここの印影、以前の資料と少し違います」そう呟いた声が冷たかった。
署名と印影の微妙なズレ
捺印は署名とセットで考えるべきだ。 だが、この契約書では署名は筆跡も整っているのに、印鑑だけがズレている。 ズレは意図的な可能性がある。
うっかりでは済まされない領域
「すみません、ちょっとズレちゃって…」と依頼人は笑っていた。 だが笑ってごまかせるのは家庭内の回覧板までである。 我々の業務は法と信頼の上にある。
印鑑登録証明書との照合
役所で取り寄せた印鑑登録証明書の印影と、今のものを照らし合わせる。 微妙な違い、線の太さ、墨の滲みまで違っていた。 誰かが偽造し、誰かが気づかないふりをしていた。
相談者の顔に浮かぶ焦り
「やっぱりまずかったかな…」と依頼人がぽつりと言った。 こちらが何も言わぬうちから口が滑る。 それは、隠しきれない人間の反応だった。
曖昧な説明と時計ばかり気にする手元
何度聞いても、署名のときの状況がはっきりしない。 「いや、確かに本人が…」と繰り返すが、視線は何度も時計へ向かう。 時間に追われる者ほど、やましい。
古びた土地売買契約書
書類の端に、別の年月日がボールペンで書かれていた。 「前の契約」と称する紙には、すでに亡くなった女性の署名がある。 そして、その印影が今回のと完全一致していた。
過去に一度だけ登場した名前
登記簿を巻き戻すと、十年前に一度だけ登場した名前があった。 依頼人の妻――現在は死亡届が提出されている。 その名が、今回の契約書に復活していた。
登記簿から浮かび上がる亡き妻の名
本来ならば相続登記を経るべき土地に、直接第三者への売買契約。 形式上の整合性を装いながら、実態は虚偽の契約。 司法書士として、そして人間として見過ごせないものだった。
サトウさんの冷静な推理
「これ、印影のトレースですね。家庭用プリンタじゃない」 サトウさんが無表情でそう言いながら、拡大コピーを並べて見せてくる。 やっぱりこの人、ルパンの不二子よりずっと怖い。
実印のズレが意味するもの
正確に押されたはずの印鑑が、実際にはズレている。 これは“なぞった”後に、ズラして押した証拠だ。 つまり本物の印鑑ではなく、偽造された印鑑。
封筒に残された古い印影の複写
以前の契約書の封筒に貼られた控えの印影が決定的だった。 それをスキャンして、白黒反転させた上でプリントし捺印したもの。 まるで『名探偵コナン』の犯人みたいなやり口だ。
裁判所提出前のどんでん返し
我々が法的措置を伝えようとした瞬間、依頼人の表情が変わった。 「やめてくれ、あれは妻の遺言だったんだ…」 その言葉が、すべてのピースを逆に混乱させた。
もう一人の「売主」
依頼人の息子が遠くにいるという話が浮上した。 彼こそが真の相続人であり、妻の遺言を捏造したのは遺産分割を省くためだった。 それは善意か悪意か、それすらあいまいだった。
登記原因証明情報の再確認
すべての登記に使われた書類を洗い直す。 根拠となる遺産分割協議書が存在しないことが決定的証拠だった。 ようやく、件の契約は白紙に戻された。
真犯人の自白
印鑑を偽造したのは依頼人の弟だった。 「兄貴の生活が苦しそうだったから…」 そんな理由で法を曲げていいはずがない。
きっかけはただの修正テープの跡
契約書の隅に残っていた修正テープの跡が、最初の違和感だった。 そこからサトウさんが芋づる式に全てを引き出した。 やれやれ、、、結局、今回も彼女が主役だったかもしれない。
やれやれという午後の空気
事件が片付いた午後、ようやく椅子にもたれた。 外では蝉が鳴いているが、事務所はエアコンと静寂に包まれている。 サトウさんは、まだ無言で書類整理を続けていた。
コーヒーとサトウさんの塩対応
「お疲れ様です」その一言だけで済まされた。 コーヒーを差し出してきた彼女は、やっぱり無表情だった。 でも、きっと少しは俺のことも認めてくれている、、、はずだ。
ずれたものは元には戻らない
印鑑のズレも、人生のズレも、押し直しはできない。 けれど真実をきちんと記録し、次に繋げるのが我々の仕事だ。 ズレの中に隠れた嘘を、静かに暴いていくしかない。
でも真実はまっすぐ押すべきだ
今日もまた、新しい案件が机に置かれている。 コーヒーを一口啜って、立ち上がる。 やれやれ、、、次のズレはどこから来るんだか。