譲渡の仮面が剥がれる時

譲渡の仮面が剥がれる時

朝の書類に潜む違和感

事務所の机の上には、分厚い売買契約書と登記関係書類の束。朝の光に照らされて、紙の白さがやけにまぶしい。何の変哲もない不動産取引の依頼書類に見えた。だが、ページをめくる私の指先が、ふと止まる。

買主の欄にあるはずの署名が、なんとも古風な筆跡で書かれていた。いや、それ自体は問題じゃない。だが、添付された本人確認資料が、、、どうにも合わないのだ。

サトウさんの冷静な指摘

「この免許証、有効期限が切れてますね」

背後からの声に、私はびくっとする。サトウさんだ。今日も朝から容赦ない。無駄のない一言で、依頼書類の不備を突いてくる。冷たい眼差しとともに。

「しかも、提出されてる印鑑証明も旧住所のまま。これ、、、通りませんよ?」

依頼人は上品な老婦人

書類の提出者は、つい昨日訪ねてきた老婦人だった。白髪をきれいに結い、やわらかな物腰。だがその瞳の奥には、鋭さがあった。「長年住んだ家を手放すのは、少し寂しいですわ」彼女はそう言って、契約書を丁寧に差し出した。

だが、あの手元の揺れ――ほんの一瞬だが、迷いを隠しきれていなかった。売る理由を尋ねても、「もう歳だから」としか言わなかった。

売買契約の裏にある沈黙

契約書には「売買」と明記されている。しかし、登記原因証明情報を読み込むと、文面には不自然な空白と曖昧な記述がいくつもあった。売却の動機や金額の裏付けとなる資料も見当たらない。

これはもしかして、「仮装譲渡」――つまり、実態のない売買契約か? 老婦人が何かを隠そうとしているとしたら、目的は何だろう。

過去の登記に揺らぐ信頼

私は登記簿をさかのぼった。すると、今問題の土地は、十年前に亡くなった配偶者名義から相続登記され、そのまま老婦人が単独名義になっている。おかしな点はない。だが、過去の公図と照合すると、分筆前の面積と現況が微妙に違う。

その小さなズレが、今回の仮装譲渡と関係しているとしたら、、、すでに何らかのトラブルが発生している可能性が高い。

見慣れたはずの字に隠された意図

あの筆跡――私はどこかで見た記憶がある。数年前に登記義務を放棄した案件の相手方、、、そうだ、遺産分割協議書に似た字があった。あの時の依頼人の次女、、、まさか。

「サトウさん、あの婦人、もしかして、、、」私は一枚のファイルを探しはじめた。

仮装譲渡という手法

仮装譲渡。名義上は売買だが、実態はそうでない。例えば、第三者からの差押えを逃れるため、信頼できる親族や知人に一時的に名義を移す。そんな手法がある。

登記の専門家としては、それが「違法ではないにせよ、無効になりうるリスクがある」ことを知っている。だからこそ、慎重に判断する必要がある。

法律の隙間と倫理の境界

「グレーゾーンですか?」とサトウさんが呟く。私は曖昧に頷く。「グレーっていうか、、、黒寄りだな」

彼女は書類を手にしながら、「けど、それを証明できる材料がなければ、我々は止められません」と冷静に言い放った。

やれやれ、、、土地には感情があるらしい

「やれやれ、、、」思わず呟く。

不動産とは不思議なもので、単なる物理的な資産のはずが、人の想いや記憶が沁み込んでいる。だからこそ、時にややこしい。そして時に、面倒くさい。

老婦人の表情に浮かぶ影が、そのまま土地に映っているようだった。

私道の共有持分が語るもの

さらに調べていくうちに、私道の共有持分に異変があった。数か月前、近隣の住人に無償譲渡された記録があった。これが意味するのは、老婦人が“何かを整理している”ということ。

つまり、終活。それも、何か隠したい過去ごと、すべて清算しようとしているようだった。

元野球部の勘が働く

高校時代、サインを盗むのは捕手の役目だったが、今の私は司法書士。サインじゃなくて、行間を読むのが仕事だ。だが久々に、あの“球種を読む感覚”が戻ってきた。

「これ、実は名義貸しの疑いもありますよ」と口にすると、サトウさんが小さく笑った。「ようやく気づきましたか」

消えた本人確認情報

問題の買主。調べてみると、実在する人物だが、所在不明。郵便物は転送され、携帯番号は解約済み。明らかに幽霊名義だ。老婦人が一人芝居を打ったとすれば、やはり仮装譲渡で間違いない。

だが、、、その動機が問題だ。

証拠となる一枚のFAX

翌日、届いた一通のFAX。それは、司法書士会からの問い合わせだった。件の物件について、過去にトラブルがあったとのこと。内容を読んで、私は背筋が寒くなった。

「家族との争いを避けるため、財産は“買主”に託した」との記録。そしてその“買主”こそ、既に他界した老婦人の姉だったのだ。

サザエさん方式で辿る人物相関図

私は手元の紙に、タラちゃん方式で相関図を書き出した。老婦人、亡き姉、姉の娘、実家の土地、過去の介護問題、、、ああ、これはもう立派なドラマだ。

「ドラえもんよりこっちのが闇深いですね」とサトウさん。うん、まさに。

仮装譲渡の真実と動機

老婦人はこう語った。「遺産を巡って、家族が争うのは見たくなかったのです」

仮装譲渡の背後にあったのは、争族を避けるための決意だった。名義を変えて、誰にも渡らないようにする。それが彼女の選んだ答えだった。

贈与でも売買でもない第三の選択

それは“封印”だった。不動産という名のパンドラの箱を、永久に閉ざすための処理だった。だが、第三者から見れば、ただの登記不備でしかない。

「人の感情は、法の枠には収まらないものですね」私は独りごちた。

サトウさんの冷徹なロジック

「結論から言えば、登記はできません」

サトウさんは冷たく、しかし正確に告げた。法的根拠、形式不備、そして確認義務違反。それらが一つずつ、静かに依頼を却下していく。

「でも、あの人にとっては、これも一つの終活だったんでしょうね」

推理の先にあった人情と打算

結局、司法書士にできるのは、真実を文書に起こすことだけだ。それ以上は踏み込めない。だけど、サトウさんの表情に、ほんの少しだけ柔らかさが見えた。

それが何より、今回の結末だった。

司法書士はただハンコを押すだけか

街の人々は言う。「司法書士は事務屋にすぎない」と。だが、そう簡単には割り切れない場面がある。人の感情や過去が絡むと、登記一つにも物語が生まれるのだ。

私たちが扱うのは、土地と人間。その二つを見極めるのが、この仕事の醍醐味だ。

責任と正義のあいだに

時に重く、時に報われない。でも、その重さこそが、仕事の意味を支えている。

「やれやれ、、、来週の決済もトラブルの予感しかしないな」

譲渡の仮面が剥がれる時

最後に、老婦人はそっと言った。「これで、ようやく姉に顔向けできますわ」

仮装という仮面を剥がしたのは、法でも説得でもなかった。老婦人の静かな覚悟と、私たちの地道な仕事だった。

今日もまた、仮面の下の真実に、ほんの少しだけ近づけた気がした。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓