手続きが終わる前に心が折れそうになる日もある

手続きが終わる前に心が折れそうになる日もある

心が壊れそうになるのはいつも「順調なとき」

登記が一件無事に終わった日、周囲からすれば「よかったね」で済む話かもしれません。でも、その「よかったね」に、自分の感情が全く追いつかないことがあるんです。むしろ、全てがスムーズに終わって、机の上が片付いたときこそ、心がぐらつく。おかしな話ですが、忙しく動いている時はまだ気が張っている。けれど一息ついた瞬間、自分の中で「何のためにやってるんだっけ?」という虚無感に包まれる。それが一番しんどい時間です。

一件落着のはずなのに、ため息しか出ない

ある日の夕方、長期化していた相続登記がようやく完了しました。お客様に完了報告をして、「ありがとうございます」と言われた。通常ならホッとする瞬間。でもその日は、電話を切ったあと、気づけば深いため息をついていたんです。「やっと終わった」の後に続いたのは、「で、自分の人生はどこに向かってるんだろう」という問いでした。ひとりの事務所、誰かと喜びを分かち合う相手もいない。喜びが喜びにならない瞬間って、こういう時かもしれません。

ミスもなく完了した日の空しさ

完璧に終えた手続きほど、終わったあとの空白が大きい。何かしら問題があって試行錯誤した案件のほうが、感情の動きがあってむしろまだ救われるんです。でも、完璧に何も起こらずに終わった日というのは、達成感よりも「虚しさ」に近い。野球で言えば、無難なフライを処理してアウトを取った感じ。華やかさもなく、手応えもなく、ただ一つの仕事が流れていくだけ。

「お疲れさまでした」が刺さる夜

事務員さんが帰る時に言ってくれる「お疲れさまでした」。それに「おつかれ」と返す自分。でも、その声がドアの向こうに消えてから、急に静かになる事務所で、自分の中にぽっかり穴が空く。誰かに感謝されることは嬉しいけれど、自分自身が誰かに労われたい気持ちは置いてきぼりになってる。そんな夜が、月に何度もあります。

手続きの山と感情の谷

日々の業務に追われているときは、「やることがある」という事実だけで自分を支えていける。けれど、手続きが一段落すると、急に気が抜けてしまう。達成感と同時に襲ってくる虚脱感。そしてその谷に落ちた時、自分を引き上げる言葉がどこにも見つからない。誰かに話しても「忙しすぎて病んでるんじゃない?」と軽く返されてしまう。それもまたつらい。

業務量と心のバランスが取れない

昔の自分なら、忙しければ忙しいほど「乗ってる」感じがしていました。でも今は違う。年齢のせいもあるのか、忙しいことがそのままストレスになってしまうようになった。そしてそのストレスが溜まりすぎると、手続きが順調に進んでも心がバランスを崩していくんです。走ってる間は転ばないけれど、止まった瞬間に足がもつれて倒れる感じ。最近、そういう心の揺れが多くなりました。

誰にも見せられない「壊れかけの自分」

仕事中は当然、きちんとした顔をして対応しています。でも、心の中ではずっと「もうちょっとだけ、楽に生きたい」と思ってる。独身で、家に帰っても話す相手がいないから、どんどん自分の中に思いが溜まっていく。事務員さんには気を遣わせたくないし、友人には格好悪くて言えない。そうやって誰にも見せられない「壊れかけの自分」と、毎日机を挟んで向き合っています。

独身司法書士の日常という孤独

地方の小さな事務所で、一人の事務員と働く。朝も夜もそのルーティンの中にあって、気がつけば誰かと深く話すことも、笑い合うことも少なくなっていた。ふとした瞬間に「これが人生の大半を占めてるのか…」と感じてしまうこともあります。仕事が忙しいことはありがたい。でも、その中に感情を置いていく場所がないと、人ってやっぱり疲れてしまうものですね。

事務所に響くキーボードとため息

一日中響くのは、キーボードを打つ音と、自分のため息。電話が鳴るか、来客があるか、それ以外の音がない。たまに聞こえる笑い声は隣のテナントのもので、自分の事務所には「静寂」という空気が詰まっている。それが心地よい日もあるけれど、何日も続くと、なんだか自分が機械になっていくような気がしてしまう。

一人と一人で成り立つ事務所の現実

事務員さんと自分の二人だけでまわすこの事務所。効率はいいけれど、会話の数は限られるし、距離感にも気を遣う。上司と部下というより、もう「戦友」に近い。それでも、どちらかが体調を崩せばたちまち業務は滞る。だからこそ、休むことにも罪悪感がつきまとう。こんな状況では、「心の余裕」なんてものは後回しになりがちです。

仕事終わりの「ただいま」は誰にも届かない

夜、家に帰ってドアを開ける。「ただいま」と言っても、返ってくる声はない。テレビもつけずにそのままソファに沈む。コンビニ弁当を食べながら、「今日は誰とも心のある会話をしていないな」と気づく。自分がこのまま誰にも見つからずに年をとっていくのではという不安が、ふと湧いてくることもある。誰かと暮らすって、やっぱり大事なんだろうな、と。

元野球部の仲間は家庭を持っている

高校時代の野球部の仲間たちは、今では立派なお父さんになっている人も多い。LINEのグループでは「息子が少年野球始めた」とか、「家族旅行行ってきた」なんて話題で盛り上がっている。自分はというと、仕事の話すらしたくない夜があって、既読をつけるだけで精一杯。グループから離れたくはないけど、入っていく勇気もない。そんな中途半端な位置にいるのが、またつらい。

飲み会のグループLINEがしんどい

「来月みんなで集まろうぜ!」というメッセージが来ると、嬉しさより先にため息が出る。休みを取ることが難しいというのもあるけれど、「誰かと楽しそうに話す自分」を想像できなくなってる。酒を飲んでるときだけ元気なフリをして、帰り道でどっと疲れる。その繰り返しが嫌で、返信を先延ばしにしてしまう。こうやってまた孤独に拍車がかかる。

昔の栄光が今の寂しさを増幅させる

あの頃は、毎日汗を流して、声を出して、仲間と勝利を目指していた。いま、あの熱量はどこにいったんだろう。誰かと肩を組んで泣いたり笑ったりした経験があるからこそ、今の「静かな日常」がよけいに冷たく感じることがある。人は過去を持っているからこそ、今が物足りなく感じるのかもしれない。だからと言って戻れるわけでもない。そのジレンマと、今も向き合っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。