自分の幸せがわからなくなった夜
夜、自宅の玄関を開けると、真っ暗な部屋が広がる。この瞬間、ふと胸の奥に沈んだような感覚が広がる。今日も無事に終わったはずなのに、なぜか心が軽くならない。自分なりに頑張っているつもりだし、生活に困っているわけでもない。それなのに、ふと「これが本当に幸せなのか?」と疑問が頭をよぎる。司法書士という仕事に就いてもう20年近くになる。地域の中で役に立っている実感はある。それでも、この問いはときおりやってきて、心をかき乱す。
一日の終わりにふと感じる虚しさ
仕事を終えて帰ってくる夜は、誰にも会わずに一日が終わることも多い。依頼人との会話、事務員とのやり取り、電話の対応。人と接しているようで、実は誰にも自分のことを話していない。そんな日々が続くと、まるで幽霊みたいにこの町に存在している気がしてくる。机の上に残ったメモ書きと、自分のために作る適当な晩ごはん。テレビをつけても、何も頭に入ってこない。ただ時間だけが過ぎていく。
頑張って働いたはずなのに満たされない
朝から書類と格闘し、法務局や銀行を駆け回って、ようやく手続きが終わったときの達成感。それが全くないわけじゃない。でも、それが自分の幸せに直結しているかと問われると、黙ってしまう。何のためにこんなに働いているんだろうか。かつては「独立して自由になりたい」と願っていた。でも実際は、自由よりも責任とプレッシャーが増えた。やればやるだけ仕事はくるけど、心が報われていない感じが抜けない。
疲れて帰っても誰もいないという現実
疲れた体で帰宅して、灯りもついていない部屋に入ると、ふっと空気が冷たく感じることがある。誰かと住んでいたら、きっと違うんだろうなと思う。夕飯を一緒に食べる相手がいるとか、今日はどうだったと話す相手がいるとか。そんな生活に憧れがないわけじゃないけど、いつの間にかそういう機会を逃してきた。結婚している友人たちの写真を見るたびに、自分だけが取り残されているような気になる。
なぜこの道を選んだのかを思い返す
司法書士になったのは、自分の力で食っていける仕事がしたかったからだ。安定していて、人の役に立てる。そう信じて努力してきた。でも気づけば、幸せよりも“責任”の方が先に頭に浮かぶようになっていた。そもそも、誰かのために動く仕事で、自分の気持ちはどこに置いておけばいいのか。報われないと感じてしまうのは、欲張りなんだろうか。
司法書士になった日のこと
試験に合格して、初めて「先生」と呼ばれたときは、嬉しさよりも緊張の方が大きかった。あの日、事務所に掲げた表札を見て、「やっとスタートラインに立てた」と思ったことを今でも覚えている。それなのに、今は「これで良かったのか」と思うことがある。初心を思い出そうとするたびに、あの頃の情熱と今の感情の差に、目を背けたくなる。
理想と現実のギャップに気づいた瞬間
理想としていた「人に感謝される仕事」と、現実に直面する「クレームや無茶な依頼」。このギャップに悩んだのは、一度や二度ではない。理不尽に怒られた日、どうしても書類が間に合わなかった日、自分の力不足に落ち込んだ日。理想は人を動かすが、現実は人を削っていく。そんなことを実感するたびに、「これが本当に幸せか?」とまた疑問がわいてくる。
周りの幸せと自分の今を比べてしまう
同世代の同業者がSNSで幸せそうな投稿をしていると、つい見てしまう。結婚、子どもの成長、休日の旅行、趣味の時間。どれも、自分にはないものばかりで、胸がちくりと痛む。別に羨ましいと言いたくないけど、心のどこかでは比較している自分がいる。そのたびに、また自分の「幸せ」の定義が曖昧になる。
SNSに映る友人たちの笑顔
高校時代の野球部の仲間が、子どもとキャッチボールをしている写真をアップしていた。ああ、自分は今誰とボールを投げるんだろう、と急に心がしんとなった。野球部時代は、夢や希望ばかり語っていたのに、今は疲れた体で風呂に入ることが1日の終わりになっている。写真の笑顔が眩しすぎて、スマホをそっと伏せた夜がある。
モテない自分と向き合う苦さ
正直に言えば、女性にはモテない。婚活も何度かトライしたが、仕事が忙しいという言い訳でフェードアウトしてしまった。そういう自分に対しても、どこかであきらめている部分がある。だからといって、一人の寂しさに完全に慣れたわけでもない。誰かに必要とされたいという気持ちは、静かに心の奥に沈んでいる。
それでもまた朝はやってくる
どれだけ夜に悩んでも、朝はやってくる。そしてまた、登記簿と向き合い、印鑑証明と格闘し、依頼人の言葉に耳を傾ける。淡々とした日々の中にも、たまに小さな喜びがある。「ありがとう」と言われたとき、うっかり笑ってしまったとき、事務員がコーヒーを差し入れてくれたとき。それだけで今日をなんとか終えることができる。
曖昧な幸せでも生きていく
幸せの形は明確じゃないし、時には見失ってしまう。それでも、生きている限り、何かしらの感情と向き合わなきゃいけない。たとえ明確な答えがなくても、考えること自体が大事なんじゃないかと思う。曖昧でも、少しずつ自分のペースで、自分なりの「幸せの輪郭」を見つけられたら、それでいいのかもしれない。
書類の山の向こうにある何かを信じて
目の前の書類は、単なる紙の束ではない。その向こうには人の人生があり、喜びや悲しみがある。そこに関わっていく仕事をしている自分を、少しだけ誇りに思う夜もある。大きな幸せじゃなくてもいい。ただ、自分の存在が誰かの役に立っているという感覚が、明日への小さな希望になる。それを信じて、また明日、朝を迎える。