「もう一度会って話したい」と言われたときの胸のざわめき
司法書士としての毎日は、基本的に「作業と段取り」でできている。時間を読んで動き、次の案件を頭の片隅で考えながら、書類を一つひとつ丁寧に積み重ねていく。ただ、その日だけは違った。昼休み、スマホに届いた一通のメッセージ。「もう一度会って話したい」。その文面を見た瞬間、動悸が少しだけ速くなった気がした。誰にでもある、過去の記憶に揺さぶられる瞬間。日常の歯車が一瞬だけ狂う、そんな午後だった。
忙しさの中に不意に差し込んできた言葉
ちょうどその日は、相続の登記と抵当権抹消が同時に重なり、午前中からずっと神経をすり減らしていた。お客様との電話、法務局への書類の確認、印鑑の押し忘れ…。そんなバタバタの中、ふと昼休みにスマホを覗いた。画面には、昔付き合っていた女性の名前が表示されていた。もう何年も連絡を取っていなかったのに。内容は一文だけ。「もう一度会って話したい」。それがどういう意味なのか、良いのか悪いのか、考える余裕もなく、ただしばらくスマホを持つ手が止まっていた。
書類の山をかき分けながら届いたLINEの通知
そのメッセージを見たのは、登記簿謄本の束をめくっていた最中だった。事務所の机の上には、未処理の案件が6件、電話応対中に投げ込まれたメモ、そして申請待ちのファイル。そんな中で、あの短いLINE通知が、まるで異物のように響いた。どんなに業務で疲れていても、人の言葉ひとつで簡単に気持ちは乱れる。書類の字が霞んで見えたのは、たぶん気のせいじゃなかった。
あの一言だけがぽつんと残っていた
結局その日、彼女からのメッセージには返信できなかった。気持ちの整理もつかず、忙しさに紛れさせるように、午後は登記完了のチェックに没頭した。それでも、仕事が終わり、事務所を出るときになっても、あの「もう一度会って話したい」という一言だけが、ぽつんと心の中に残っていた。不思議と、重くも軽くもなく、ただ「静かな水の波紋」のように、胸の奥に広がっていた。
司法書士としての毎日に追われる日々
地方の司法書士というのは、地味で目立たない仕事だ。誰かの人生の転機に関わることはあるけれど、基本的には「求められた処理」を滞りなくこなすことが仕事。自分で言うのも何だが、書類処理能力とスケジュール管理の精度だけは、そこそこ鍛えられてきた。だけど、その代わりに「人と向き合う時間」は確実に減っていた。もともと人付き合いは得意じゃないし、女性にもモテない。でも、時々ふと、心の隙間に誰かの存在が欲しくなる瞬間がある。
独りでこなすという選択の重み
開業してからずっと、一人でやってきた。最近になってようやく事務員さんを雇ったけれど、それまでは書類作成も顧客対応も、全部ひとりで背負っていた。やればできる。でも、ふとした瞬間、「これ、誰かと一緒にやれたらな」と思うことがある。特に、失敗したときや、理不尽なクレームを受けたとき。一人だと、全部、自分の責任。逃げ場がないのだ。
事務員さんの存在にどれだけ助けられているか
最近採用した事務員さんは、真面目で気が利く。彼女が「お昼買ってきましょうか?」と気遣ってくれるだけで、妙に救われた気持ちになる。言葉って、便利だけど怖い。そして、ささやかな言葉ひとつで、ここまで気持ちが動くんだと実感する。司法書士として働いていると、どこかで人の感情に鈍くなっていたのかもしれない。
どうしてあの一言に心が動いたのか
「もう一度会って話したい」。たったそれだけの言葉なのに、その日から数日は、心が落ち着かなかった。毎日の業務は淡々とこなしていたつもりでも、ふとした瞬間にあの文面が脳裏をよぎる。なぜ、今になって連絡をくれたのか。なぜ、会って話したいのか。こちらの生活のことなんて考えてないのに、勝手に気持ちが動いてしまうのが、また悔しい。
言葉の奥にある感情を勝手に読み取ってしまう癖
司法書士という仕事柄、契約書や登記理由証明書の「文面の意図」を読み解く力は自然と身についた。そのせいか、人の言葉にも必要以上に意味を探ってしまう。「もう一度」と言われれば、「過去を悔やんでる?」とか、「復縁希望?」とか、つい深読みしてしまう。そんな自分が面倒くさいと思いつつ、でも、簡単に「じゃあ会おう」と言えない自分も、やっぱりどこかで臆病なんだと思う。
「もう一度」なんて言葉が持つ重たさ
「もう一度」という言葉は、希望を含んでいるようで、その実、過去への後悔を孕んでいる。会って話すことで、何かをやり直せるかもしれない。でも、同時にまた傷つくかもしれない。そういうことを考えてしまうのは、大人になったからなのか、それとも一人で仕事を続けてきたからなのか。どちらにしても、そう簡単には割り切れない。
独身司法書士としての自分の現在地
仕事は忙しい。ありがたいことに、依頼は尽きない。でも、日々を振り返ると、誰かと何かを「共有」している実感がほとんどない。仕事をして、帰って、簡単にご飯を食べて、眠るだけ。誰かと生きていくという選択肢は、自分にはもうないのだろうかと思う夜もある。そんな中での「もう一度」という言葉。これは、ただの気まぐれか、それとも…。
女性にはモテないけど人恋しさはある
モテない、という自覚はある。顔も性格も、たぶん平均以下。でも、だからといって人を好きにならないわけじゃないし、人に優しくされるのが嬉しくないわけでもない。たまにコンビニで笑顔で接客されただけでも、変に嬉しくなってしまう自分がいる。人恋しさって、もっと年を重ねればなくなると思ってた。でも、どうやら逆らしい。
仕事と孤独はいつもセットでやってくる
「独立したら自由になれる」と思っていた頃が懐かしい。実際には、独立すればするほど、責任も、時間も、孤独も増える。誰かに相談できることは限られていて、愚痴を言う相手もいない。ただ、それでも誰かの役に立っている実感があるときだけは、報われた気がする。
「もう一度」が意味するものを考えた夜
その日の夜、久しぶりに深く考えた。あのメッセージにどう返信しようか。会って何を話すのか。自分は何を求めているのか。答えは出なかった。でも、少なくとも自分の心がまだ誰かの言葉に動かされること、そしてそれを「悪くない」と思えていることに気づいた。それだけでも、ちょっとした進歩かもしれない。
野球部だった頃の友情を思い出す
高校時代、野球部で汗を流していたころは、毎日が誰かと一緒だった。グラウンドの土、ユニフォームの汗、先輩に怒鳴られた夜。全部が、共有されていた。それが懐かしい。人と生きるって、めんどくさいけど、いいものだな、と今さら思い出す。あの頃に戻れるわけじゃない。でも、あの感覚は忘れたくない。
あの頃は、ただ素直に会いたいと思えた
「会いたい」と思ったら、理由なんていらなかった。LINEもメールもなかったけど、放課後に顔を合わせればそれでよかった。今はどうだろう。言葉を選びすぎて、タイミングを失って、結局なにもできない。だからこそ、「もう一度会って話したい」と言ってくれたその一言が、いまも胸の奥で静かに鳴り響いている。