信頼っていつからこんなに軽くなったんだろう

信頼っていつからこんなに軽くなったんだろう

信頼という言葉に抱いていた昔のイメージ

「信頼」と聞いてまず思い出すのは、やっぱり高校時代の野球部です。地方の田舎校で、決して強くはなかったですが、部員の間には妙な連帯感がありました。どんなに苦しい練習でも、あいつがやってるなら自分も、っていう空気が自然とあった。怒られても一緒、走らされても一緒。そんな中で育った「信頼」は、言葉にする必要なんてなくて、ただ、当たり前のようにそこにあるものでした。でも、今の仕事ではそうもいきません。

元野球部が感じていた信頼とは

信頼というのは、背中を見てればわかるようなものでした。試合中、ライトを守っていた自分が、センターのカバーに入るときに迷いなく走れたのは、センターのやつが絶対にボールを前に落とさないって信じてたからです。それが外れたことなんて一度もなかった。ミスをしないんじゃなくて、ミスしても全力で食い止めてくれるって思えるのが、当時の信頼だった気がします。

背中を預けられる関係

今思えば、あれほど気持ちよく人に背中を預けられた経験は他にありません。別に言葉で「信じてるぞ」なんて言わない。でも、練習中の姿や表情から、こいつはやるやつだって自然と感じる。そういう信頼が、僕にとっての原点です。社会に出てから、「信頼しています」なんてメールの一文に違和感を覚えるのは、たぶんその頃の実感とあまりにかけ離れているからなんでしょう。

信頼は言葉より行動で示すものだった

「言わなくても分かる」は甘えだ、と最近よく言われます。でも、あの頃の信頼は、言葉より行動で示されるものでした。球を追う姿、声かけ、ベンチの雰囲気。それで十分だったんです。今はどうか。いくら誠意を込めても、書類が整ってなければアウト。些細なミスで「信用が揺らぐ」と言われる。信頼ってそんなに軽くて壊れやすいもんだったっけ?と、つい思ってしまいます。

司法書士になってから見えた信頼の形

司法書士として働き出してから、「信頼」の意味がずいぶん変わった気がします。お客様との関係、法務局とのやり取り、事務員との連携。そのどれもが、昔のように“肌感覚”でつながるわけにはいきません。確認、再確認、文書化、証拠化。信頼とは言え、あらゆるものにエビデンスを求められます。信じてくれているはず、なんて言おうもんなら「なにを根拠に?」と突っ込まれる。信頼とは、信じることじゃなくて、手順を守ることなんでしょうか。

契約書にも載らない空気の信頼

信頼って、数字にも契約にも出てこない。書面には「瑕疵担保責任」とか「善管注意義務」なんて言葉が並ぶけど、それってつまり「お互いに信用してない前提で始めましょうね」ってことですよね。もちろん仕事ですから仕方ない。でも、昔のような“根拠のない信頼”を持ち込む隙は、今の社会にはあまりないように感じます。

信頼が仇になる瞬間もある

「この人なら大丈夫」と思っていた依頼者に裏切られることもあります。料金を滞納される、勝手に資料を改ざんされる、連絡が取れなくなる。そういう時、信頼していた分だけダメージが大きい。だったら最初から、信用しすぎない方が傷つかずに済む。そう思うようになって、少しずつ、自分から「信じること」を避けるようになりました。

昔と今で変わった信頼の重み

昔の信頼は重かった。時間も努力も必要だったし、それに見合う関係だった気がします。でも今は、あまりに簡単に「信頼してます」と言われる一方で、ちょっとしたことであっさり裏切られたような気分になる。SNSで「この人信頼できる」なんて言葉を見かけると、「ほんとに?」って、つい突っ込みたくなる自分がいます。

メールで済む時代に感じる薄さ

昔は、信頼関係を築くのに“顔を合わせること”が大前提でした。でも今は、メール一本、チャット一通で済む時代です。効率はいいかもしれないけれど、顔も声も知らない人に「信頼しています」と言われても、何を信じていいのかわからない。業務を進めるうえでは問題なくても、心のどこかがついていかないのです。

確認の言葉が増えた分だけ疑いも増えた

「念のため確認ですが」「再確認ですが」──こうした言葉がメールに並ぶたびに、自分が疑われてる気がして少し傷つく。でも、こちらも同じように書いてる。確認の応酬が当たり前になったことで、信頼の言葉が“儀礼”になっている。疑わないといけない前提って、どこか悲しく感じてしまうのは、感傷が過ぎるでしょうか。

顔の見えない関係に疲れている

仕事柄、ネットで完結する手続きも増えました。効率的ですし、忙しい身には助かる。でも、一度も会ったことのない人とやり取りをすることに、どこか消耗するものを感じます。相手の声も温度も知らないまま、ただ書類とデータだけで関係が進んでいく。そこに「信頼」という言葉を使うのは、どうにも違和感があります。

相手の都合のいい信頼に振り回される

「先生にお任せします」「信頼してますから」という言葉の裏に、責任の丸投げを感じることがあります。こちらは慎重に進めていても、相手がそのつもりじゃないこともある。都合のいい時だけ信頼を盾にして、問題が起きると「聞いてなかった」と言われる。そんなやり取りに何度も疲弊してきました。

信じることがリスクに変わった気がする

信じるという行為が、かえって自分の立場を危うくする時代になった気がします。昔は信頼して裏切られても「仕方ない」で済んだ。でも今は、信じて失敗すれば責任問題に発展する。誰かを信じるという行為が、どこか“リスク管理の対象”になっているようで、それが悲しいし、寂しいとも思うのです。

信頼を求めるのをやめたら少し楽になった

「信頼されたい」「信頼したい」と強く思うほど、空回りするようになった。だから最近は、その欲求を少し手放すようにしています。仕事ではあくまで「信用」で割り切る。相手の人間性ではなく、行動と結果で判断する。冷たいようだけど、その方が精神的にはずっと安定するようになりました。

仕事の上では信用で割り切る

信頼と信用は似ているようで違います。信頼には“感情”が混ざりますが、信用は“実績”や“履歴”がベース。今はできるだけ信用に徹するようにしています。やってくれる人、返してくれる人、守ってくれる人。そうやって事実だけを見て関わるようにすると、不要な感情の摩耗が減って、だいぶ生きやすくなりました。

人間関係に幻想を抱かないという選択

若い頃は、仕事でも人間関係に“熱さ”を求めてました。でも今は、幻想を抱かないようにしています。「この人ならわかってくれる」とか「信頼し合える関係になれるはず」なんて考え始めると、たいてい裏切られる。その繰り返しで、自分も他人も疲れるだけ。割り切ることで、余計な失望もなくなりました。

信頼は誰かに与えてもらうものじゃない

「信頼されたい」と思うほど、自分を苦しめていた気がします。でも、信頼って本来は、誰かに与えてもらうものじゃなく、自分がどうあるかで自然とついてくるものだと思うようになりました。信じてもらうために無理するのではなく、自分が納得できる行動を続けていれば、それで十分なんじゃないかと、最近は思えるようになりました。

信じられる自分でいられるかどうかだけ

最後に残るのは、「自分が自分を信じられるかどうか」です。他人に裏切られても、自分まで信用をなくしてしまったら立ち直れない。誰かを信じることよりも、自分の判断、自分の行動を信じること。それができているうちは、他人からの信頼に振り回されることも少なくなるように感じています。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。