この道でよかったのかなと思う朝に
目が覚めた瞬間に押し寄せる違和感
目が覚めた瞬間、天井を見つめながら「今日も始まってしまったな」とため息をつく朝がある。枕元のスマホを見ても特に面白い通知はないし、外はどんより曇り。朝から気分が晴れないと、心の奥にわだかまりが残ったまま仕事モードに入ることになる。「なんか違うな」と思いながらも、着替えて玄関を出てしまう自分に、毎朝少しずつ嫌気が差す。司法書士としての責任感があるからこそ動けてはいるが、その内側では「これでよかったのか」と自問自答する日々が続く。
毎朝感じる「ズレ」の正体
この仕事に就いてから15年以上が経つ。依頼を受け、書類を整え、登記をこなし、電話応対をする日常。最初はやりがいもあった。でも最近は、どこか自分と仕事の間に「ズレ」のようなものを感じている。時間の経過とともに、何かを置き去りにしてきた気がしてならない。それが何かははっきりしないのだけど、たとえば昔描いていた理想像とか、他人に期待していたこととか、そういうものかもしれない。ズレは日々少しずつ積もって、いつのまにか大きな違和感となって、朝の胸に重くのしかかってくる。
予定が詰まっていても心が空っぽ
Googleカレンダーはびっしりだ。相続登記、抵当権抹消、法人の定款変更……やることは山ほどあるし、どれも手を抜けない。でも、終わった後に残るのは達成感ではなく、妙な空虚さだったりする。あれだけ動いて、処理して、感謝もされるのに、心が動かない。野球部だった頃の試合後の爽快感とはまるで違う。感情の起伏が少ない日常に、いつからか「仕事をこなすだけの機械」みたいな自分が住み着いてしまっているのを感じる。
思い描いた未来とはどこか違う気がする
司法書士を目指していたあの頃。もっと自由で、もっと人の役に立っている実感がある仕事だと思っていた。独立したら「俺の城だ」と胸を張れると思っていた。でも、現実はどうだ。誰にも相談できず、書類の山に埋もれ、休日も電話に追われる。こんなはずじゃなかった、と何度思ったか。理想と現実の差は、まるで成長期にサイズが合わなくなったユニフォームみたいで、着るたびにどこか苦しい。
あのとき別の選択肢があったなら
たまに思う。もし大学卒業後、司法書士ではなく一般企業に就職していたら、今頃は違う人生だったのだろうかと。でも同時に、その世界にも不満はあったかもしれないとも思う。人は結局、どの道を選んでも「もしも」を考えてしまう生き物なのだろう。だからといって、それを口に出してしまうと負けたような気がして、結局ひとり夜のオフィスでモニターを見つめるだけになる。
もしも司法書士じゃなかったら
高校時代の夢はプロ野球選手。もちろん叶わなかった。でもあのころの自分には、根拠のない自信と希望があった。司法書士になったのは、手に職をという現実的な理由だったけれど、今となってはそれが良かったのかは正直わからない。違う道を選んでいたら、今より楽しく生きていただろうか。そう思う一方で、この仕事の中にも確かに「やりがい」は存在していて、その矛盾がまた、自分を悩ませる。
夢を捨てた瞬間の記憶
司法書士試験の勉強中、元チームメイトが結婚式を挙げた。招待されていたけれど、直前で断った。試験勉強を理由にして。でも本当は、自分の置かれている現実を見たくなかったのだ。あの場にいたら、「お前何やってるんだ?」って誰かに聞かれて、答えられなかった気がする。夢を捨てるっていうのは、はっきりした瞬間があるわけじゃなくて、日々の小さな選択の積み重ねの中で、静かに手放していくんだと思う。
それでも進み続けた理由
やめようと思ったことは何度もある。でも、やめた後の自分を想像すると、さらに怖かった。司法書士として働くことで、「社会の一員でいられる」という安心感があるのも確かだ。人との接点も少ない生活の中で、わずかながらも感謝される瞬間が支えになる。続ける理由なんて、本当は大したことじゃない。ただ「今日もなんとか過ごせた」という事実だけで、十分な気がしている。
独身という現実と寂しさの正体
結婚しなかった。というより、できなかったと言った方が正確かもしれない。仕事が忙しい、出会いがない、気づけばそんな言い訳ばかりしていた。でも本音は、誰かと一緒にいる自信がなかったのだ。疲れて帰ってきて、不機嫌な顔を見せたくない。愚痴ばかりの自分と一緒にいて、相手が幸せになれる気がしなかった。でも、それでも時々、誰かと夕食を食べたくなる夜がある。
人恋しくなるのは休日の午後
平日は忙しさにまぎれてごまかせる。でも、土曜の午後、コンビニ弁当を食べているとき、なんともいえない孤独が押し寄せてくる。テレビをつけても笑えないし、スマホを見ても誰にも連絡できない。そんなとき、事務員さんがくれる気の利いた一言が、妙に沁みる。彼女がいなければ、もうとっくにこの事務所も閉じていたかもしれない。
元野球部の仲間たちは家庭を持ち始めた
同窓会に行くと、みんな子どもの話をしている。「少年野球のコーチやってるよ」とか「運動会で張り切りすぎて転んだ」とか。うらやましい、と思う。でも同時に、今さらそんな人生は歩めないとも思ってしまう。時間って残酷だ。取り戻せないというより、振り返るたびに、どんどん自分が遠ざかっていくような感覚になる。
「ただの仕事仲間」以上になれない壁
事務員さんはよく気が利くし、助けられている。でもそれ以上の関係になろうとは思えない。いや、思わないようにしている。もし失敗したら、今の関係さえ壊れてしまう気がするから。そんなリスクをとるほど、自分は若くない。気づけば、仕事の中でしか人と関われなくなっていた。恋愛の仕方も忘れてしまったのかもしれない。
それでも事務所を閉じなかった理由
たったひとりの事務所で、誰に評価されるわけでもない仕事を続けるのは、正直しんどい。それでもここを閉じなかったのは、どこかに「まだ何かあるかもしれない」という期待があったからだ。もしかしたらそれは、依頼人のひと言だったり、通帳の数字だったり、自分でもよくわからない何かかもしれない。でも、ゼロではない限り、続ける意味はあると信じたかった。
事務員の存在に救われる日
ある日、「先生、最近ちょっと元気ないですね」と言われた。驚いた。そんなに出てたのかと。でも、その言葉でちょっと泣きそうになった。誰かが見てくれてる、それだけで救われる。人は誰かに見られることで、初めて自分の存在を肯定できるのかもしれない。彼女の一言で、また一日だけ頑張ってみようと思えた。
人に頼るのが下手だからこそ
頼るのが苦手だ。全部ひとりで抱え込んでしまう。だからこそ、倒れる前に少し誰かに話すことが大事なのかもしれない。事務員さんのような存在がいてくれて、少しずつでも甘えられるようになったのは、大きな変化だった。年齢を重ねるごとに、助けを求めることが「恥」ではなく「生存戦略」なんだと思うようになった。
続けることだけが答えじゃないかもしれない
この道を続けることが正しいかどうかは、たぶんずっとわからない。でも、立ち止まったり、考え直したりすることは決して悪いことじゃない。変わるのが怖くて動けないだけかもしれない。だからこそ、ときどき立ち止まって、「本当にこれでいいのか」と問い直す時間が必要だ。今はまだ動けなくても、それでも考え続けることが、自分を支えてくれている。
それでもまた朝はやってくる
そんな風に考えても、朝は容赦なくやってくる。昨日の迷いも不安も関係なく、アラームは鳴る。天井を見上げて、深呼吸して、また一日が始まる。完璧でなくてもいい。誰かに認められなくてもいい。とりあえず今日も、ゆっくりでも、進んでいけばいい。そんな風に思えるようになったのは、たぶん歳をとったからだ。
一杯のコーヒーがくれる小さな希望
朝、事務所で一人コーヒーを淹れる時間が好きだ。カップから立ち上る湯気を見ていると、「今日も何とかなるかもしれない」と思える瞬間がある。どんなに迷っても、すべてが無駄になるわけじゃない。小さな習慣が、自分を支えてくれている。誰かと笑いあえる日まで、今日もまず一杯。
完璧じゃなくてもいい
全部うまくやろうとすると、身動きが取れなくなる。完璧主義が首を絞める。だから最近は、7割でよしとするようにしている。たまには間違えてもいい。失敗してもいい。人間なんだから。それでもクライアントには丁寧に向き合い、誠実であることだけは忘れないようにしたい。それが自分なりの“仕事観”かもしれない。
この「モヤモヤ」と付き合っていく覚悟
モヤモヤが完全に晴れることは、もうないのかもしれない。でも、共に暮らすことはできる。朝の違和感も、夜の不安も、すべてひっくるめて自分だ。無理に消そうとせず、うまく付き合っていく。それが、大人になるってことかもしれない。そうやってまた、今日も仕事に向かっていく。