あの日の静かな午後に起きたこと
公正証書の作成に立ち会う日は、たいてい緊張感が漂う。依頼者もこちらも、それなりに気を引き締めて臨む。だが、あの日は違った。午後の陽射しが窓から差し込み、室内にはやわらかな空気が流れていた。まさかその穏やかさが仇になるとは、そのときは思いもしなかった。証人のひとりが、途中で船をこぎはじめたのだ。それは一瞬のことだったが、時が止まったような空気に包まれた。司法書士として十数年やってきたが、あんな現場は初めてだった。
証人が突然寝てしまった瞬間
公正証書作成における証人の役割は単なる立会いではない。書面の内容を確認し、署名押印することで、その証明力を支える立場にある。だからこそ、証人が寝るというのは、あってはならないこと。にもかかわらず、目の前でその「事件」は起きた。証人の肩がゆっくりと傾き、こっくりこっくりと揺れ始めたのだ。公証人も一瞬、言葉を詰まらせた。私は視線で事務員に合図を送りながら、なんとか場をつなごうとするが、頭の中は真っ白だった。
依頼者の視線とこちらの冷や汗
依頼者の目線がチクリと痛い。笑っていいのか、怒っていいのか、判断に迷うその視線が刺さる。私の額にはじわりと汗が浮かび、指先は震えていた。こういうとき、人は冷静でいられるようでいて、実際は何も考えられなくなる。事務所に戻ったらどうやってフォローするか、それ以前に今この状況をどう収めるか。沈黙のなかで、公証人が軽く咳払いをし、場が再び動き出した。それがどれほどありがたかったか、今でも思い出す。
事務員は気づいていたのか?
後で聞くと、事務員は早い段階で証人の異変に気づいていたという。だが、下手に動くことで依頼者に不信感を与えてはいけないと思い、黙っていたそうだ。その判断が正しかったかは今でもわからない。だが、あの場ではそれが最善だったのかもしれない。事務員もまた、緊張の中で最善を尽くしていたのだ。証人が眠ってしまうなんて、想定外中の想定外だが、我々の仕事はそういう「もしも」と隣り合わせで成り立っている。
予想外のトラブルにどう対応したか
想定外のことが起きたとき、最も大事なのは「誰が、どう動くか」だ。あのときのような場面では、慌ててはいけない、怒ってもいけない。だが現実には、感情は抑えきれないものだ。私も心の中では叫んでいたし、正直、証人に対してイラつきすら感じた。だが、それを表に出せば、依頼者の信頼を失うことになる。なんとか冷静を装いながら、その場を乗り切ることができたのは、公証人の機転と、事務員の冷静な対応のおかげだった。
叩き起こすか、そっとしておくかの選択
あの時、一瞬だけ「肩を叩いて起こすか?」という選択肢が頭をよぎった。だが、それをした瞬間に場の空気が壊れる。依頼者の信頼も、証書の進行もすべて台無しになってしまうかもしれない。私はあえて何もせず、少し大きめの声で読み上げのテンポを上げた。すると、証人はハッと目を覚ましたように顔を上げ、うつろな目でこちらを見た。その目を見て、怒る気はすっと引いた。人間、完璧ではいられないのだと改めて思い知らされた。
公証人の冷静な一言に救われた
その後、公証人が淡々と「少し疲れていらっしゃるようですね」とだけ言った。そのひと言が、場の空気を壊さず、証人の体面も守った。そして何より、私たちを救ってくれた。プロの対応とはこういうことなのだと、目の当たりにした瞬間だった。私はそれまで、公証人のことを「ただの読み上げ係」と見ていた節があったが、その見方は完全に覆された。沈着冷静、状況を読む力、それこそが本物の専門家だと痛感した。
とりあえずその場を乗り切ったが…
結局、その日は何とか無事に署名押印まで終えることができた。証人もその後はしっかりと意識を保ってくれた。依頼者も特にクレームを言うことなく、淡々と帰っていった。だが、心の中にはしこりが残った。この対応で本当によかったのか。もっと事前に注意すべきことがあったのではないか。証人の選定、当日のコンディションチェック、体調確認。すべてが反省点となって、私の胸に重くのしかかった。
事務所に戻ってからの反省会
事務所に戻った私は、事務員と缶コーヒーを飲みながら簡単な反省会を開いた。こういう時の缶コーヒーは妙に苦くて、妙にうまい。「やっぱりあの人、来るときからちょっとボーッとしてましたよね」そう言う事務員の言葉に、私はうなずくしかなかった。自分でも、少し無理をさせていたことは薄々わかっていた。けれど、その場になってようやく気づくようでは、士業としてまだまだ甘いのだと痛感した。
事務員の遠慮がちな苦言
普段あまり口を出さない事務員が、「証人はもう少し若い人でもいいかもしれませんね」とぽつりと漏らした。その言葉は、ただの意見というより、私への小さなダメ出しのようにも聞こえた。でも、それがありがたかった。事務員の目線のほうが、依頼者や周囲の空気に近い。私のように頭でっかちに手続きを考えるのではなく、現場感覚で感じたことを教えてくれる存在だ。私はそれを、もっと信じるべきなのかもしれない。
そもそもなぜ寝てしまったのか?
あとから聞いた話では、その証人は前日ほとんど寝ていなかったらしい。理由は、家族の介護で夜通し付き添っていたからだそうだ。そんなこと、事前にはわからない。けれど、確認する手段はあったはずだ。せめて「最近お変わりないですか?」と声をかけていれば、違う展開になっていたかもしれない。我々の仕事は人を扱う以上、「手続き」だけでは済まないのだと、あらためて思い知った。
証人選任の意外な落とし穴
証人選任を軽く見てはいけない。信頼できる人、形式をわかっている人、それだけでは足りない。健康状態や当日のスケジュール、そして本人の気力や体力まで視野に入れるべきなのだ。私がそこまで考えられていなかったことが、今回の失敗につながった。士業の世界では、「当たり前にこなせること」が尊ばれるが、それは決して自然に成立しているわけではない。ひとつひとつ、丁寧に準備していくことの大切さを痛感した。
この出来事から得た小さな教訓
証人が寝てしまうという想定外の出来事。その中にあったのは、私の油断と、準備不足、そして何より「人間を理解する姿勢」の欠如だったように思う。形式的な正しさにばかり目を向けて、人としての気遣いを忘れてはいけない。そんな当たり前のことを、私はあの日の静かな午後に改めて学ばせてもらった。たったひとつの失敗からでも、得られることは多い。それがこの仕事の、苦しさであり、やりがいでもあるのだ。