気づけば判子と書類に囲まれて眠っていた夜
目覚めた夜の静寂と、足元のファイルたち
パキン、と乾いた音がして目を覚ました。どうやら寝返りの拍子に角印を踏みつけたらしい。枕元には申請書の控え、足元には登記識別情報の封筒。
「まるでサザエさんちの押入れが俺のベッド代わりになったみたいだな」と苦笑いした。いや、波平ならまだましだ。彼は家族がいる。こちらは判子とOCR用紙しかいない。
足の小指に触れた角印の感触
小指が地味に痛い。まるで「もう少し気を遣え」と自分自身から注意を受けたかのようだった。
就寝時の“いつもの風景”
天井から吊るされた照明が、無機質な影を作る。ベッドの横にはPCバッグ、床には朱肉。布団の上には“登録免許税計算表”。どうやら今夜も寝る前の“趣味”は登記だったらしい。
どこからか漂う謄本の匂い
書類を多く扱っていると、紙の独特なにおいが染みついてくる。もはや香水より謄本のにおいのほうが落ち着くのかもしれない。
生活感を失っていった経緯を振り返る
大学の法学部を卒業し、司法書士試験に受かったとき、未来は輝いていると思っていた。
だがその輝きは、蛍光灯の白色光に変わり、生活感という言葉は「非効率」として排除された。
独身男性司法書士の部屋は事務所と化す
部屋の隅には登記六法、壁際にはPCモニターが2台。観葉植物の代わりにホワイトボードが立っている。生活というより、作戦本部だ。
冷蔵庫よりもロッカーが充実
冷蔵庫には水とプロテインバー、ロッカーには登記関係の書類が整然と並ぶ。中身の充実度でいえば、冷蔵庫は完敗だった。
テレビよりも申請用紙の山
気づけばテレビを観なくなって久しい。代わりに観ているのは“登記ねっと”の入力画面。ニュースより早い更新頻度に感動すら覚える。
サトウさんのひと言に撃沈した日
その日も遅くまで仕事をしていた。事務員のサトウさんがふと、コーヒーを淹れながら言った。
「先生、それって…もう趣味が仕事じゃないですか」
「え?そうかな」と言いかけて、口を閉じた。否定できなかった。確かに、趣味が仕事化しすぎて生活が消えていた。
いや、それ“趣味”って言うか…
「趣味とは、誰の役にも立たないことをあえてやることなんですよ」と彼女は続けた。
「それ、逆に言えば先生の人生って全部“役に立つこと”しかないのでは?」
—図星だった。
心の動揺を隠せない自分
「やれやれ、、、」と思わず声が漏れた。
彼女は苦笑いを浮かべてデスクに戻った。残ったのは、沈黙と、電子署名の確認画面。
元野球部の根性論は、もう効かない
高校時代、泥だらけのユニフォームを誇りに感じていた。
いま、泥はないが、疲れだけはこびりついている。
気合と根性では部屋は片付かない
バットを振る気合で判子を押しても、寂しさは消えない。むしろ朱肉の色が、感情の欠落を際立たせる。
かつての部活魂にすがる夜
「この登記を明日までに通すんだ!」と気合を入れる自分は、まるで決勝戦のマウンドに立つピッチャーのようだった。
でも今日はバットもグローブもない
あるのはマウスとテンキー、そして静まり返った部屋。キャッチャーのサインすらない、ひとりの試合。
それでも今日も依頼者は待っている
書類の向こうには誰かの人生がある。
そう思えば、少しだけこの無機質な生活にも意味がある気がした。
誰かの困りごとに向き合う日々
今日も一人、オンライン申請の画面を開く。そこには“ありがとう”も“お疲れさま”もないが、完了通知のメールが届くと、少しだけ報われる。
“俺の時間”って何だったんだろう
一人暮らしの部屋で、時々思う。“俺の時間”ってなんだ?趣味?旅行?
今は、たまの昼食のカツ丼が唯一の娯楽かもしれない。
けれど、やめる勇気もない
依頼がある限り、俺はここにいる。
判子と書類に囲まれた夜でも、誰かの人生の「次の一歩」のために。