誰かと食べるだけで満たされることがある

誰かと食べるだけで満たされることがある

食事の時間がただの作業になっていた

いつからだろう。昼ごはんをコンビニで済ませることに何の感情もなくなってしまったのは。机の上で容器のフタを開け、スマホでニュースを眺めながら、ほとんど噛まずに流し込む。それがもう何年も続いている。たまに気づく。今日は何を食べたか思い出せないことに。昔は、食事の時間って少し楽しみだったはずなのに。今はもう「済ませる」だけのタスクになっている。

お腹は満たされても心は空っぽ

別に空腹で困っているわけじゃない。コンビニもスーパーもすぐ近くにあるし、自炊すればもっと安くて栄養のあるごはんだって食べられる。でも、不思議と満たされない。食べ終えても、なんだか虚しい。食器を片づけながら、「なんで俺はこの時間をひとりで過ごしてるんだろう」と思うことがある。忙しいはずなのに、こういう時だけ時間がやたらと静かで、重い。

いつからか食事が面倒になった

以前はちょっと凝ったものを作るのも嫌いじゃなかった。味噌汁を一から出汁でとったり、煮物に挑戦したり。でも、いつしかやめてしまった。誰にも見せることがない料理は、だんだん手を抜くようになっていった。「誰かのため」っていう目的がないと、こんなにも気力が削がれるのかと思う。作っても、食べても、感想は「まあまあかな」と自分で自分に言うだけ。

誰かと食べた日の記憶がやたら鮮明

逆に、誰かと食べた日のことって、なぜかよく覚えている。数年前に同業の友人と居酒屋に行った日のこととか、事務員さんの誕生日に一緒にランチに行った日のこととか。料理の味じゃなくて、笑った表情とか、気まずい沈黙とか、そんな場面が記憶に残っている。ああ、こういうのが「食事」だったんだって、しみじみ思う。そういう時間を、ずっと味わってない。

一緒にごはんを食べるということの意味

誰かと一緒に食べるって、ただテーブルを囲むだけじゃないんだなと最近やっと思うようになった。お互い何を食べるか相談したり、ちょっとした冗談を言い合ったり。そういう時間が人間らしさを取り戻させてくれる。たまには誰かと一緒に、温かいものを食べたいと思うけど、なかなかその勇気が出ないのも現実だ。

黙ってても安心できる相手がいること

気を遣わないでいられる相手と過ごす食事の時間って、本当に貴重だと思う。何を話すわけでもなく、ただ黙って箸を動かしているだけなのに、なぜか安心感がある。昔の野球部の合宿では、疲れ切って誰も喋らないままごはんを食べていたけど、不思議と心は満たされていた。あの空気が今でも恋しい。

会話よりもただの存在が欲しかった

本音を言えば、今、話し相手がいなくてもいい。ただそこに誰かがいて、一緒にごはんを食べるという、それだけでいい。気まずくても、沈黙でもいい。一人分の食卓を囲むときのあの孤独感は、なかなか言葉にできない。だから、黙って横に誰かがいてくれるだけで救われるような気がする。

元野球部の頃のいつもの飯が恋しい

白米と味噌汁、焼き魚、少しの漬物。それだけでも、みんなで囲むと豪華に思えた。あの頃はごはん=仲間との時間だった。今は、栄養とカロリーを満たすだけの手段にしかなっていない。味は悪くない。むしろコンビニの冷凍技術はすごい。でも、味じゃないんだよなって思う自分が、ちょっと寂しい。

忙しさに流されて人と距離ができていく

朝から晩まで業務に追われていると、誘われることも、誘うことも億劫になる。打ち合わせもオンラインばかり。事務所で誰かと雑談することも少ない。ちょっと人と話しただけで妙に疲れてしまう。忙しさが人を孤独にするって本当だ。

今日も弁当を広げるのは自分の机の上

事務所の机で、紙袋からそっと取り出したコンビニ弁当。レンジで温める時間すらもったいなくて、そのまま食べることも多い。事務員さんは席を外していて、話しかけることもない。テレビの音も、音楽もない。ひたすら「食べる」という行為だけがそこにある。これって「生きる」ってことなのか?とふと不安になる瞬間がある。

事務員さんと話すのは業務連絡だけ

「この書類、FAXしました」「登記完了してます」。そんな会話ばかり。雑談をする余裕がないわけじゃないのに、どこか壁を感じてしまうのは、こちらの問題かもしれない。別に嫌われてるわけじゃないはず。でも、プライベートな話をしたいと思えるほど、今の自分に余裕がないことに気づく。

誰かと食べることに遠慮が出てしまう年齢

気づけばもう45歳。独身。友達も少ない。誰かと食事をすること自体に、妙に気を遣ってしまうようになった。「誘っても迷惑かな」とか「変に思われないかな」とか。若い頃なら気軽に言えた「今夜、空いてる?」が、なぜか喉元で止まってしまう。

誘うほどの仲でもなく誘われることもない

一人の時間に慣れすぎたせいか、誰かと食べること自体がハードルに感じることがある。仲は悪くない。でも食事に誘うほどでもない。そういう距離感の知人が増えていく。こちらから声をかけなければ、一生会うこともないかもしれない。そう思うと、孤独ってじわじわと染み込んでくる。

誰かいませんかねと独り言だけが増えていく

最近、独り言が増えた。「誰かいませんかねぇ」「一緒に焼き鳥でもどうですか」って、心の中でつぶやく。言葉にすれば虚しくなるだけだから、口には出さないけど。でも本音では、誰かと食べたいと思ってる。別に毎日じゃなくていい。ただ月に一度でも、そんな日があれば、きっと救われる。

それでも今日も何かを片付けていく

人とごはんを食べるのが贅沢に感じるなら、もうそれは「ごほうび」なんだと思うことにした。ごほうびがないと仕事も続かない。だからせめて、たまに自分に許してあげようと思う。誰かと食べる時間を。

ごはんを食べるように仕事も続ける

どんなに虚しくても、生活は続く。登記の締切は待ってくれないし、相談はどんどん入る。誰かと食べることは叶わなくても、自分の中で小さな楽しみを見つける努力はできるはずだ。缶コーヒー一本でも、「頑張った自分」に乾杯するような気持ちで飲む。それだけでも、少し心が和らぐ。

次の登記がある限りは動き続ける

やらなきゃいけないことは山積み。休みの日にも気が抜けない。でも、それでも、動けるうちは動こうと思う。この生活の中に、「誰かと食べる」という奇跡みたいな瞬間がまた訪れるかもしれないと、期待だけはしている。

そんな日常を繰り返している自分をふと笑う

ふと鏡を見ると、目の下にクマ、髪はボサボサ、だけど不思議と笑えてくる。「なんだかんだ、今日もごはん食べて生きてるじゃないか」って。誰かと食べるだけで満たされる日が、また訪れることを信じて、明日も仕事を続ける。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。