朝の依頼人はどこか様子がおかしかった
朝九時、事務所の扉が軋む音を立てて開いた。年の頃は七十を越えていそうな男性が、つかつかとカウンターに歩み寄る。目の下には深いクマ、手にはくしゃくしゃになった封筒。何かに怯えているようだった。
「遺言のことで相談したい」と彼は言ったが、その声にはどこか切迫感があった。こちらの質問には曖昧な返事ばかり、まるで誰かに見られているかのように背後を気にしていた。
妙な依頼人が来るのは珍しくもないが、今日は少し違う空気が漂っていた。俺の勘が、ざわついていた。
シワの伸びた封筒と震える手
依頼人が差し出した封筒は、まるで何度も開け閉めされたかのように痛んでいた。そこから取り出されたのは、一通の遺言書。内容は簡素で、全財産を甥に譲ると書かれていた。
だが、問題はそこではなかった。依頼人の手が震えていたのだ。ただの老いとも違う、何かを隠している人間特有の震えだった。
「これ、ちゃんと裁判所にも確認してもらったんです」と彼は言った。そのとき、サトウさんの眉がピクリと動いた。
「家裁に相談したのに」と繰り返す理由
依頼人はやたらと「家庭裁判所に相談した」と繰り返していた。あたかもそれを強調することで、こちらの疑念を晴らそうとしているようだった。
だが、俺たちはそんな台詞で安心できるほど素直ではない。サザエさんが「タラちゃんは三輪車に乗ってるから大丈夫」と言っても、事故は防げないのと同じだ。
言葉は飾れる。だが、書類は嘘をつかない。少なくとも、普通はそうだ。
謎の遺言書と相続放棄のからくり
遺言書のコピーを預かりながら、俺は裏面に何気なく目をやった。そこには日付が二重線で修正されている跡があった。消しゴムでこすられたような痕も見える。
相続放棄の通知もあったが、どうにも形式が旧い。用紙の隅に記載されているフォーマットは、五年以上前のものだった。違和感が募る。
その違和感が、後に大きな波となって返ってくることになるとは、このときまだ思っていなかった。
日付のずれが意味するもの
遺言書の日付は、家庭裁判所の通知日と一致していなかった。むしろ、通知よりも未来の日付だった。
未来に書かれた遺言書――SFかよ、と呟きそうになったが、笑える話ではなかった。誰かが、書類の日付を改ざんしている。
この手の小細工、漫画『怪盗キッド』であれば煙の中で巧みにすり替えてしまうだろうが、これは現実だ。そう簡単にはいかない。
サトウさんの冷静な一言
「あの通知、本当に裁判所から届いたんですか?」とサトウさんが静かに口を開いた。彼女の声には、疑いではなく確信がこもっていた。
俺は驚いて彼女を見たが、その目はまっすぐに依頼人を見据えていた。依頼人は、その視線から目をそらした。
やれやれ、、、またサトウさんの推理力が俺を超えてきたらしい。
真実を見抜く眼差し
サトウさんは机から手帳を取り出し、数か月前に届いた本物の裁判所通知の控えと照合を始めた。紙の質、ハンコのインクの濃さ、全てが微妙に異なっていた。
「これ、プリンタで作られてますね」と彼女は指摘する。依頼人は目を見開き、肩をすくめた。
その瞬間、全てがつながった。家庭裁判所の名前を盾に、偽の通知と遺言書を使って不正登記を狙っていたのだ。
記録にない裁判所の決定
翌日、家庭裁判所に連絡を入れた。結果は予想通りだった。該当する通知も、決定も、一切発行されていない。
記録にない裁判所の決定など、存在しないのだ。つまり、彼が持ち込んだ全ての文書が偽物だったということ。
だが問題は、彼がそこまでして誰を守ろうとしたのか、あるいは誰を騙そうとしたのか、ということだった。
登記簿の一枚と見落とされたメモ
古い登記簿の中に、小さなメモが挟まっていた。「本当の遺言は別の封筒に」。筆跡は依頼人の妻のものだった。
どうやら、依頼人は本物の遺言を隠し、都合の良い内容に書き換えようとしていたらしい。それも、家族を守るためではなく、自分の利益のために。
裁かれるのは誰か。答えは、誰よりも本人が知っていた。
やれやれ またしても一波乱か
結局、依頼人は不正の疑いで調査を受けることとなった。提出された文書の数々はすでに証拠として押収された。
「手の込んだ嘘ほど、バレたときの代償は大きいものですよ」とサトウさんが淡々と言う。
俺は机の書類を片付けながら、深いため息をついた。「やれやれ、、、午後からの登記相談も地雷くさいんだよなあ」。
古いFAXが鍵を握る
事件の鍵となったのは、数年前に送られていた古いFAXだった。家庭裁判所からの正式通知の控えとして、事務所のファイルにひっそりと残っていたのだ。
それを見つけたのも、もちろんサトウさんだった。俺がクッキーの箱と間違えて捨てかけていたのは、ここだけの話だ。
こうしてまた、俺たちの事務所には静けさが戻った。束の間、だけどな。