語れないのではなく語る場がないだけの自分
誰にも言えないって、実はけっこうしんどい
「最近どう?」という何気ない問いかけに、私はいつも言葉が詰まる。別に大したことはしていない。週末は仕事を片づけて、近所のスーパーで弁当を買って、録画したプロ野球の試合を一人で観る。それだけ。でも、それをそのまま言うのが何か恥ずかしくて、結局「特に何も」という曖昧な返事をしてしまう。話す内容がないのではなく、話しても興味を持たれないんじゃないかと思っているのだ。司法書士という肩書を背負ったまま、プライベートをどう語ればいいのか、正直いまだによくわかっていない。
雑談の時間が一番緊張する
仕事の話ならスラスラ話せるのに、雑談になると急に不自然になる。特に事務所内や近隣の司法書士同士でちょっとした雑談が始まると、私はできるだけ早く話題が変わるのを待つ。昔からそうだった。学生時代も野球部で部活の話はできるのに、「好きな子いるの?」なんて話題になると一気に黙ってしまった。何を話せば正解なのか、今でも分からない。だから、なるべく最小限の言葉でやり過ごしてしまうのだ。
「何してた?」の問いにフリーズ
週明け、事務員が明るく「先生、休みの日何してました?」と聞いてくれる。悪気がないのはわかってる。でも、私はその瞬間、頭の中が真っ白になる。「何してた?」と聞かれて、特に面白い話題もなく、答えたところで会話が広がらない。せっかく声をかけてくれたのに、こちらが盛り上げられない。そんな自分に情けなさと申し訳なさが混ざって、なんとも言えない空気になるのだ。
自分から話題を出せない不器用さ
私から話題を振ることはほとんどない。仕事中の会話は基本的に業務連絡で終わる。昔から「話すより聞くほうが楽」と感じていたが、それは「聞き役に徹していた」というより「自分のことを語れないだけ」だったのかもしれない。実は人と深くつながりたい気持ちはあるのに、どうすればその一歩を踏み出せるのかが分からない。結局また黙り込んでしまう。それが続くと、自分でもどんどん無口な人間になっていく気がしている。
言わないのではなく、言えないという感覚
「言わない」ことと「言えない」ことは、似ているようで全然違う。「言いたくない」というより「言う場所がない」あるいは「言う方法が分からない」というのが正直なところだ。話したい気持ちはあるのに、誰にどう伝えればいいのか分からない。司法書士という職業柄、冷静で論理的な受け答えを求められる場面が多く、感情を交えた雑談や自分語りの仕方を忘れてしまった気がする。
話す癖がついていないだけかもしれない
ふと思う。もしかしたら、ただ単に「話す癖」がついていないだけなんじゃないかと。長年、事務所に一人でいて、誰かとプライベートな話をする機会なんてなかった。習慣がないだけ。そう考えたら少し気が楽になった。話すことが特別苦手というよりも、慣れていない。なら、少しずつでも慣れていけばいい。そう思うようになったのは、ここ最近のことだ。
自分の生活を出す価値がないと感じていた
正直、何年も自分の生活に「語る価値がない」と思っていた。仕事中心で、交友関係も少なく、特別な趣味もない。誰かに話しても面白くないし、どうせ興味なんて持たれない。そうやって勝手に自分を評価して、黙っていることを選んできた。でも、それは思い込みだったのかもしれない。何気ない日常こそが人とのつながりのきっかけになることもある。話してみないと、それが分からないのだ。
元野球部のノリがここで役に立たない
学生時代、野球部だったころは「黙って頑張るのが美徳」だった。試合で結果を出せば認められたし、言い訳する暇があったら走ってこい、という世界。あの頃の空気が、今でも心のどこかに染みついている。だからこそ「語る」という行為自体に不慣れで、「話すこと=弱さを見せること」のように感じてしまう。でも今、必要なのは黙って頑張ることじゃない。むしろ少しでも自分の内側を見せることのほうが、信頼につながるのかもしれない。
仕事の顔しか見せられない日々
この職業をしていると、「先生」と呼ばれ、自分が誰かのためのサービスを提供する側であり続ける。その役割の中で「素の自分」を出す余地が少なくなっていった。結果、仕事上では信頼されていても、人間的なつながりは希薄になる。最近ふと、「あの人、何考えてるか分からないよね」と言われたのが地味に刺さった。そう言われても仕方ないほど、自分は自分を出してこなかった。
「プライベートくらい自由にさせてくれ」と思っていた頃
以前の私は、プライベートを仕事に持ち込まないのがプロだと思っていた。だからこそ「週末何してたの?」のような軽い雑談すら、どこか余計な詮索に感じていた。自由でいたい、自分だけの時間は自分のもの。そう思っていた。でも、それは本当の自由だったのだろうか。誰にも話せない孤独の中で、守っていたのは“自由”ではなく“壁”だったのかもしれない。
他人に合わせる会話に疲れた過去
昔、恋愛経験も少ないまま合コンに誘われたことがある。場の空気に合わせて、仕事の話は控えて、趣味も無理やり「映画鑑賞」だなんて言ってみたけど、すぐにバレた。「嘘つくの、向いてないですよね」って笑われたあの瞬間。あれから、無理に合わせるのはやめた。でも、合わせることが悪いわけじゃない。自分を偽らず、ちょっとずつ出していける関係性なら、それはきっと居心地のいい雑談になるはずだ。
踏み込まれたくないという防衛本能
プライベートに関して「聞かれたくない」という気持ちがあったのも事実だ。人と距離を取っていれば、余計な詮索もないし、変な誤解を生むこともない。でもその距離がいつしか孤独を招き、人間関係が表面的なものになってしまった。防衛のつもりが、自分を狭い檻に閉じ込めていたような気がする。
本音を出すのが怖いという気持ち
一度だけ、飲みの席で少しだけ愚痴をこぼしたことがある。「忙しいのに報われない」と。それを聞いた同業の人が「分かりますよ、その気持ち」と言ってくれて、思わず泣きそうになった。その瞬間、「あ、自分、ずっと我慢してたんだな」と気づいた。本音を出すことは、恥ずかしい。でも、たまには誰かに聞いてもらってもいいのかもしれない。
それでも少しずつ心を開くようになったきっかけ
最近、ようやく少しずつだが、話せるようになってきた。相手の問いかけを、少し深く受け取って、ちゃんと自分の言葉で返す。最初はぎこちなかったけど、それでも少しずつ楽になってきた。会話って、結局キャッチボールだ。野球部だった頃のように、下手でも投げ続けるしかない。
事務員とのささやかな雑談が変えてくれた
事務員とのやりとりが、私の小さなリハビリだった。彼女は気を遣いながらも、さりげない雑談を続けてくれる。最初は「お疲れ様です」だけだったのが、最近は「この前の試合見ました?」とか「先生って辛い物苦手ですか?」なんて話をしてくれるようになった。そういう何気ない会話の積み重ねが、心のドアのカギを少しずつ外してくれている気がする。
語る相手がいなかっただけだった
結局のところ、自分が語れなかったのではなく、語る相手がいなかっただけかもしれない。人に話すことで、自分のことを改めて知ることもある。誰かに受け止めてもらえる経験が、語る勇気をくれる。司法書士という立場に縛られすぎず、一人の人間としての自分も、少しずつ出していければいい。無理せず、でもあきらめずに。