気づかぬうちに増えていく謎の業務
司法書士として独立してから十数年。少しずつ業務をこなすうちに、いつの間にか「自分しかやらない仕事」が増えていった。誰にも頼めないような繊細な仕事もあれば、「なんとなく前からやってるから」というだけの仕事もある。気づけばそれが日常になっていて、疑問を持つことすらなくなっていた。気を抜けば積み上がる書類の山。何のためにやっているのかを見失っても、惰性と責任感だけでやり続けてしまうのがこの仕事の怖さだ。
いつの間にか「自分の担当」にされていたこと
たとえば月末の棚卸し的なファイル整理。これはもともと前にいた事務員がやっていた作業だったのに、その人が辞めてから自然と僕の業務になっていた。「まあ、自分でやったほうが早いし」と思っていたら、気づけば数年そのまま。誰かに引き継ごうにも、誰にも教えてないし、ルールも曖昧で、そもそも必要性すら説明できない。それでもなんとなく不安だから毎月手を動かしてしまう。
断れない性格が生んだ静かな業務地獄
元来、断るのが苦手な性格だ。頼まれると「はい」と言ってしまうし、面倒そうな話でも「まあ、やっておきますよ」と受けてしまう。だから他士業からの雑務的な依頼も、気づけば全部こちら持ち。誰にも文句は言われないけれど、誰にも感謝もされない。その結果、自分で自分の首を絞めることになる。仕事の優先順位が見えなくなり、必要のない業務に追われて、本当にやるべき仕事が後回しになる。
元野球部の上下関係脳が災いしている説
高校時代、野球部で鍛えられた「上下関係の徹底」が、今になって逆に自分を苦しめている気がする。先輩には逆らえない、頼まれたら断れない、目上の人に対して失礼があってはならない。そんな感覚が染み付いていて、依頼を断ることが「非礼」に感じてしまう。だから無意識に「全部自分でやる」方向へ走ってしまう。結果、業務はどんどん増え、自分の首を絞めているのに、誰にもそれを訴えられない。
事務員からの素朴な質問に凍る
そんなある日、うちの事務員さんから何気なく言われた。「先生、このチェックって、必要なんですか?」と。何気ない一言だった。でも、その瞬間、僕は完全にフリーズした。必要か?と聞かれると、答えに窮する。ずっとやってきたから、というだけで、本当に今必要かと考えたことはなかった。むしろその問いすら自分で立てたことがなかったのだ。
「先生これって必要なんですか」の破壊力
その問いは、まるで胸の奥に杭を打ち込まれたような衝撃だった。「えっ…あ、うーん…昔からやってるから…」と情けない返答をしながら、自分の中にあった「常識」が一気に揺らいでいくのを感じた。事務員さんは別に責めるつもりもなかったのだろう。純粋に疑問に思っただけ。でも、その素朴な疑問が、自分が見ないようにしていた「無意味な業務」の存在を炙り出してしまったのだ。
自分でも答えられなかった瞬間
長年の習慣でやっているだけのことに、理由を求められると困ってしまう。しかも、それがまさに今の仕事の多くに当てはまると気づいてしまった。僕の中で「なんとなくやってる仕事リスト」が浮かび上がってきて、背中がゾッとした。合理化どころか、非効率の塊。それを「仕事の責任感」でごまかしていた自分がいた。
言葉に詰まるのは迷いがある証拠
本当に必要な仕事であれば、即答できるはずなのだ。「これはこういう理由で必要です」と。でもそれができなかったということは、自分の中にも迷いがある証拠。続ける理由がなくなってしまった業務を、なんとなく手放せずにいた。だからこそ、その問いかけは鋭くて、深く刺さる。日々の忙しさに流されて、本質を見失っていた。
「全部自分でやる病」と孤独の相乗効果
独立してからというもの、「自分で全部やらなければ」と思ってきた。そうでなければ回らないという思い込みに近いものだった。でもそれが、自分の首を絞め、周りに頼ることも忘れさせていた。孤独の中で「頼らない」ことが強さだと誤解していた。
任せられないのではなく任せ方がわからない
実は、信頼していないわけではない。ただ、任せ方がわからないだけなのだ。自分のやり方を説明するのが面倒で、つい「やっておくよ」と手を出してしまう。結果、事務員の負担も増えず、自分だけが疲弊していく。これは一種の悪循環で、抜け出すには意識的な「手放し」が必要になる。
結局は自分でやったほうが早いという呪い
「教えるより自分でやったほうが早い」という感覚は、現場仕事においては確かにある。けれど、それを続けていてはいつまでも一人で抱え込むままだ。育てる、任せる、信じる——それができないままだと、業務は減らないし、自分も成長しない。自分が変わらない限り、時間の使い方も改善されない。
この業務ほんとに必要かどうか見直してみた
あの一言をきっかけに、いくつかの業務をリストアップして、見直してみた。「そもそもこれは誰のための仕事か」「法的根拠はあるか」「依頼者は求めているか」。その視点で見てみると、驚くほどの業務が「削れる可能性あり」と判明した。いや、本当は薄々気づいていたんだろうけど。
優先順位をつけたらいくつか消えた
「緊急でも重要でもない業務」は思い切ってカットすることにした。たとえば手書きで記録していた謎の管理簿。Excelで管理すれば5分で済むのに、毎回30分かけて手書きしていた。やめてみたら何も困らなかった。むしろ、空いた時間で他の依頼者対応ができた。自分が変われば、事務所も少しずつ変わる。
でもなぜかやっぱり手が動いてしまう
不思議なことに、削ったはずの業務に手を伸ばしてしまうことがある。体が覚えているのだろう。必要性はなくても「やらないと不安」という気持ちが残っている。でも、そんな時はぐっとこらえて、自分に問いかける。「それ、本当に必要か?」と。今も完全にはやめられないけれど、意識するだけでも大きな一歩だ。
もし誰かに「それ必要ですか」と聞かれたら
あの事務員の一言に救われた気がしている。「必要ですか?」という問いかけは、時に人を傷つける。でもそれは、自分の中の曖昧さに向き合うチャンスでもある。だから今では、僕自身も自分に問いかけるようにしている。「これは何のための仕事か」「誰が喜ぶのか」。その答えが見えた時、本当にやるべき仕事が見えてくる。
答えられないことには理由がある
答えに詰まる時、それは「意味がないかもしれない」と思っている証拠だ。忙しさにかまけて、疑問を置き去りにしてしまっていた。でも、問い直すことで、仕事の輪郭がはっきりしてくる。そうすれば、他人に説明することもできるようになるし、自信を持って「これは必要です」と言える。
必要かどうかは誰のためかで変わる
誰のための仕事かを意識すれば、業務の「必要性」は変わってくる。依頼者の安心のためなのか、自分の確認のためなのか、単なる習慣なのか。その区別がつけば、不要な仕事を削り、必要な仕事に集中できるようになる。業務を見直すことは、自分を見直すことなのかもしれない。