依頼人は突然に
静かな午後に訪れた女
午後三時、事務所のドアベルが控えめに鳴った。窓の外は曇天で、風がぬるく流れ込んでくる。カレンダーを眺めていた私は、訪問者の影に気づいて椅子を引いた。
ドアを開けて入ってきたのは、黒いスーツに身を包んだ女性だった。年のころは三十前後、無表情だが、その目は何かを抑えつけているような鋭さがあった。
「この戸籍と登記簿のことで、相談に乗っていただけますか」女性はそう言って、封筒を差し出した。
妙に古びた戸籍謄本
手渡された書類の束の中に、変色した戸籍謄本があった。平成初期のものだ。最近はデジタル化が進み、こういう紙の戸籍はめったに見ない。
内容をざっと読むうちに、私の眉間にしわが寄った。父、母、娘、そして……知らぬ間に消えているもう一人の子供。何かが、変だ。
「この家、何かありましたか?」と聞くと、彼女は一言、「兄が突然、土地を相続したんです」とだけ答えた。
不審な相続の匂い
法定相続分に潜む矛盾
提示された登記簿を見る限り、兄が単独で土地建物を相続したことになっている。だが、法定相続分では彼女にも当然、権利があるはずだ。
相続人の共有登記にせず、単独所有にするには遺産分割協議書が必要だ。しかし、それらしき書類はなかった。いや、むしろそれが不自然だった。
「協議書はありますか?」と尋ねると、彼女は首を横に振った。「兄は『親父が遺言書を残していた』と言っていました」
筆跡と印鑑の違和感
遺言書のコピーを確認すると、たしかに印鑑と署名があった。だが、私の眼はごまかせない。署名の筆跡と印影がどうにも一致しない。
しかも使用されている印鑑は実印ではなく、100円ショップで売っているような三文判だった。「こりゃ、安っぽい芝居だな」と私は思わずつぶやいた。
隣の席のサトウさんがため息をつく。「シンドウさん、ドラマと現実は違いますよ」――しかし、今回は現実のほうがよほどドラマチックだった。
調査は登記簿から
不動産の所有権の変遷
私は法務局でその不動産の過去の登記記録を取り寄せた。すると、相続登記の直前に、所有権保存の手続きが行われていたことがわかった。
つまり、遺産という形ではなく、建物は最近になって新たに「建物表題登記」され、そのあと兄がいきなり相続した形にされているのだ。
ここに至って、ようやく構図が見えてきた。古い家が取り壊され、新たに建て直した際に、兄が登記上の単独所有者として名乗りを上げた――遺言書を添えて。
隠された売買契約書
さらに市役所で調べていると、兄名義の住宅ローンが数年前に組まれていたことがわかった。これは相続ではなく、購入したということではないか。
現地へ赴くと、案の定、表札は兄の名前に変わっていた。ポストから飛び出た不動産会社のチラシの裏には、売買契約書の写しが無造作に挟まれていた。
「やれやれ、、、わざわざ証拠を自分でばらまいてくれているとは」私はひとり苦笑した。
サトウさんの冷静な推理
一枚のコピーに残ったヒント
事務所に戻ると、サトウさんが机の上に印刷物を広げていた。彼女はスキャンデータの拡大図を指差して言った。「これ、印影がコピーの重ね貼りですよ」
確かに、朱肉のかすれ具合が明らかに不自然だった。別の書類からトリミングして貼り付けたものだろう。署名も筆圧がなく、表面が均一だった。
「つまり遺言書は偽造?」私は訊く。サトウさんは無言でうなずいた。そして何事もなかったように自席に戻り、キーボードを叩きはじめた。
違和感の正体とは何か
結局のところ、兄は家を建て直すために親の資産を担保に勝手に手続きし、それを正当化するために、遺言書を捏造したのだった。
しかし、彼に悪意があったかどうかは一概に言えない。彼はこうも言っていたらしい。「妹には借金を背負わせたくなかっただけだ」と。
それでも、法律は感情よりも明確だ。登記と証拠、そして正義の名のもとに、事実を整理するのが我々の役目だ。
遺言書の行方
古い金庫の中身
彼女が実家の押入れで見つけた金庫の中から、本物の遺言書が見つかった。封緘され、公証人の署名が入った正式なものだった。
そこには「遺産は子どもたちで平等に分けてほしい」と書かれていた。それは彼女の記憶にあった父の言葉と一致していた。
偽造された遺言書がいかに無意味だったかを、書面は静かに証明していた。
対峙する兄妹
語られなかった家族の過去
真実が明らかになった後、兄は無言で頭を下げた。「俺が悪かった。父さんの意思をねじまげた」
妹は答えなかった。ただ、机の上に本物の遺言書を置いた。それは赦しではなかったが、憎しみでもなかった。
家族の歴史には、いつも誰かの沈黙がある。
決め手は司法書士の視点
真実を記録する登記の力
この事件で私が感じたのは、登記という制度の持つ「記録力」の強さだった。一度書かれたことは、簡単には消えない。
しかし、それを操作しようとする人間の手が入れば、正しさは簡単にねじ曲げられる。その監視役が、我々司法書士の役目なのかもしれない。
「サザエさんの家にも、こんな泥沼の遺産相続があったら面白いな」と私はつい口にしてしまった。サトウさんは当然、無視だった。
やれやれ、、、一件落着
サトウさんの無言の称賛
事件が解決したあとも、事務所に穏やかな空気は戻らなかった。サトウさんは淡々と書類整理を続けていた。
「俺、少しは役に立ったかな」と独り言を漏らすと、彼女は一瞬だけ肩をすくめた。「まあ、たまには」とだけ呟いた気がした。
やれやれ、、、また書類の山と格闘する日々だ。
書類の山と孤独な夜
事務所に残る微かな疲労感
深夜、机の上にはまだ処理待ちのファイルが積まれている。コーヒーのカップは空のまま、私はしばし目を閉じた。
事件は終わっても、司法書士の仕事は続く。法の世界に終わりはない。孤独もまた、帳簿と一緒に積み重なっていく。
それでも、私は少しだけ笑った。きっと、まだやれる。
終わらない物語の始まり
司法書士としての覚悟
事件を通じて、再び初心を思い出した。書類の裏には、必ず誰かの人生がある。その人生に、少しでも誠実でありたい。
司法書士という仕事は、地味で目立たないが、だからこそ正しさにこだわる価値がある。私はそれを、これからも大切にしたい。
「次の依頼、もう来てますよ」サトウさんがポツリとつぶやいた。私は背筋を伸ばし、また机に向かった。