静かな午後に響いた怒号
司法書士をしていると、いろんな人間模様に立ち会うことになります。とはいえ、あの日の午後ほど心がぐったりした日は、正直あまり記憶にありません。家族信託の相談ということで親子で事務所に来られたお客様。最初は落ち着いた雰囲気だったのですが、途中から様子がおかしくなり、ついには怒号が響く展開に。地元の小さな事務所の静けさを一気に壊すその声に、私はただただ椅子に押しつぶされそうな気持ちで座っていました。
いつも通りの相談のはずだった
その日の午前中は、遺言書の検認手続きの準備をしていて、昼過ぎには少しゆっくりできると思っていました。午後一番のご予約は、「父親名義の不動産を家族信託で管理したい」という50代の息子さんからの相談でした。お父様もご高齢とのことで、将来の認知症リスクや相続対策に備えて、との話でした。正直、こういった家族信託の相談は最近増えており、特に珍しいケースでもなく、私はいつものように「きっちり整理しよう」と内心構えていたのです。
「そんなつもりじゃなかったんですけどね」
しかし、事態は想定外の方向へ転がっていきました。最初は息子さんが資料を見せながら説明し、私は必要書類やスキームの一般的な流れを伝えていました。でも、途中でお父様が「勝手なことばかり言うな」と口を開いた瞬間から、場が一変。「そんなつもりじゃなかったんですけどね」と私が口にしたのは、おそらく3回目くらいの怒鳴り声の後でした。書類の話なんてもう誰も聞いちゃいません。感情の応酬。こちらが冷や汗かくほど、激しい言葉のやりとりが続きました。
息子さんの涙 親の怒声
終盤、お父様は「おまえは信用できん!」と机を叩き、息子さんは黙りこくったまま涙を流していました。こんなに険悪になるとは…。書面を挟んで向かい合う親子が、ただ憎しみだけを投げ合っているように見えて、本当に辛かったです。司法書士として中立の立場でいようと努めても、人間ですから感情が揺れます。「もっと早く話し合っておけば」と小さな声で漏らした息子さんのひと言が、いまでも耳に残っています。
なんで私がその板挟みに
途中、私は何度も「少し落ち着いてください」と言いましたが、どちらも聞く耳を持たず。内心では「なんで俺がこんな修羅場に…」という思いでいっぱいでした。結局、その日の打ち合わせは中断。資料だけ預かって終了。事務員さんがそっと差し出した冷えたお茶が、唯一の救いだった気がします。元野球部の私でも、こういう場面の“メンタル守備範囲”は超えてます。
家族信託ってそんなに揉めるの
家族信託は、法的には柔軟で便利な制度です。認知症対策や財産の円滑な承継に役立ちますし、遺言よりも実務上スムーズな場合も多いです。でも、制度がどれだけ優れていても、それを扱うのは「人」。信託契約を結ぶ以前に、家族同士の信頼関係が築けていないと、結局うまくいかないんですよね。
信頼とお金が交差する場所
そもそも家族信託は「信じて託す」仕組みです。つまり、信頼が前提。でも、信頼関係って、口では「大丈夫」と言っても、ふとしたことで揺らぐ。特にお金が絡むと、それまで表に出てこなかった感情が噴き出します。「あいつだけ得するんじゃないか」とか、「俺のことを信用してないのか」とか。そういう積年の思いが、打ち合わせの席で爆発してしまうことがあるんです。
想定してなかった“家族の温度差”
信託の設計で注意するのは、当事者間の温度差。息子さんは「親の老後を考えての行動」と思っていても、親からすれば「勝手に進めて何様だ」と感じる。気持ちのズレが大きければ大きいほど、誤解は深まり、話し合いは破綻していきます。制度の話に入る前に、心の話をする勇気が必要だと痛感しました。
善意が仇になる場面もある
息子さんの言動は、明らかに善意からでした。でも、その善意が、親にとっては「自分の意思を無視された」と映ってしまうこともある。人は、自分の最期に関わる判断を“誰かに委ねられる”ことを、意外と怖がります。たとえそれが家族であっても。「全部考えておいたよ」ではなく、「一緒に考えたいんだ」と言えるかどうかが、大きな分かれ目になると思います。
司法書士は聞き役ではなく盾
私たち司法書士は、法律の専門家であると同時に、家族間の話し合いの立会人になることもあります。とはいえ、その「立ち会い」が、感情の渦の中に巻き込まれることだとは、資格試験では教えてくれませんでした。現場は、本当に“生々しい”です。
第三者の限界と責任
もちろん私は第三者であり、中立です。でも、あれだけ感情が激しくぶつかり合うと、中立であること自体が難しくなる。何を言っても、どちらかの“肩を持った”と受け取られる。そのたびに「司法書士って何なんだろう」と思います。でも、そこで逃げてはいけない。冷静でいなきゃいけない。でも心はぐったり。なかなか報われない立場ですね。
「どちらの味方ですか」と詰められて
打ち合わせの終盤、息子さんに「先生は父の味方ですか?」と聞かれた瞬間、背筋が凍りました。味方って何だろう。私は契約を円滑に進めたいだけなのに…。でも彼からすれば、信じて相談した私が、自分の意図に反した言動を取ったように見えたのかもしれません。あれは正直、きつかった。
事務員さんがそっとコーヒーを出してくれた
打ち合わせが終わった後、無言で事務所に戻ると、事務員さんが黙ってコーヒーを淹れてくれました。私はそのままデスクに座って、しばらく一言も発しませんでした。やれやれと思いながらも、こんな日がまた来るんだろうな…という諦めにも似た感情だけが残りました。
信託ってそもそも誰のためにあるのか
結局のところ、家族信託は「家族の安心」のためにある制度です。でも、その“安心”を手に入れるためには、想像以上に根気と対話が必要。制度の良し悪しではなく、“向き合うこと”そのものが肝心なんだと思います。
親の想い 子の不安 司法書士の孤独
「親の資産を守りたい」「子どもに迷惑をかけたくない」そのどちらも、根底にあるのは家族への想い。でも、そこに“伝え方”の壁がある。間に入る司法書士として、私ができるのはその壁の存在に気づいてもらうことだけかもしれません。正直、孤独な作業です。
見えない感情の交通整理
信託の設計図には、相続税や不動産登記の知識だけじゃなく、人間関係のバランスも盛り込まないといけない。それが“感情の交通整理”。道交法なんてないし、信号もない。でも、止まらないと事故になる。そのバランスをとるのが、司法書士の知られざる仕事のひとつです。
それでもやっぱり必要な話し合い
あの親子は、結局その日以降、しばらくご連絡がありませんでした。でも私は、あの口論にも意味があったと思っています。ぶつかり合って初めて、互いの距離や価値観がわかることもある。だからこそ、あきらめずに話し合ってほしい。それが、司法書士としての私のささやかな願いです。
逃げたくなるけど逃げられない
正直言って、こういう現場には行きたくない。でも、逃げていては何も変わらない。それに、誰かが立ち会わなければ、家族はますますバラバラになってしまうかもしれない。そう考えると、やっぱり「司法書士」という仕事は、泥臭くて、でも大事な役割を担っていると思えるのです。
対立の先にある“ちょっとした理解”
人は言葉に出さなければ、何も伝わりません。でも、言葉にしたからといって、すぐに理解し合えるわけでもない。それでも、ぶつかり合いの先に、少しだけ歩み寄れる瞬間がある。そこに立ち会えることこそが、司法書士としてのささやかなやりがいなのかもしれません。