誰かと食べるだけで少しだけ生き返る夜がある

誰かと食べるだけで少しだけ生き返る夜がある

一人で食べるコンビニ弁当がしみる夜

仕事が終わる頃には、すでに街は静まり返っている。閉店間際のコンビニで何となく手に取った弁当と缶ビール。事務所に戻って、冷たい蛍光灯の下でそれを黙々と食べる。温めたはずのご飯が、なぜか味気なく感じる。隣には誰もいないし、話しかける相手もいない。口を動かしているのに、心がどこか乾いているのが分かる。司法書士という仕事柄、人の話はたくさん聞くけど、自分の話を誰かにする時間はない。そんな日々の中、食事すら「義務」になっていた。

おにぎりをかじりながら書類をめくる日常

忙しさにかまけて、まともに食事を取らない日も多い。昼食なんて、ほとんどデスクでおにぎり片手に登記簿を確認しながら流し込んでいるだけ。事務員も気をつかって何も言わないが、たぶん呆れていると思う。昔は昼休みに野球部の仲間とワイワイ弁当を囲んでいたのに、今は「おにぎりを食べる時間」があれば御の字。味は感じないが、空腹は満たせる。それで充分と自分に言い聞かせてきたけれど、本当にそれでいいのかと、ふと立ち止まってしまう。

テレビもつけずに黙々と流し込む

夜の事務所は静かすぎて、自分の咀嚼音すら響いて気まずい。テレビもつけず、スマホも見ず、ただただ箸を進める。空腹感は満たされていくのに、心はどこか取り残されたまま。昔はテレビ番組の内容にツッコミを入れながら笑っていたのに、今は「音」が煩わしく感じてしまう。司法書士の仕事は、精密さと冷静さが求められる。だからこそ、無意識のうちに「感情」を切り離す癖がついてしまったのかもしれない。

満腹なのにどこか物足りない気持ちの正体

食事を終えても、どこか満たされない。腹は膨れたのに、心が飢えている。食べるという行為は、栄養を取るだけじゃないはずだ。誰かと「一緒に」食べること、その空気感や会話、沈黙すらも、実は大事な栄養だったのかもしれない。そう思うと、孤独な食事の繰り返しが、じわじわと自分を弱らせている気がした。

たまたま誘われた定食屋の出来事

ある日、登記の相談を終えた依頼者が「ちょうど昼時ですし、一緒にごはんでも」と誘ってくれた。最初は気をつかわせたかと戸惑ったが、断る理由もなかったので近所の定食屋に入った。たまたまの出来事。でも、それが今でも印象に残っている。味噌汁の湯気越しに見た風景が、やけに鮮明に記憶に残っているのだ。

「一緒に食べませんか」の何気ない一言

その依頼者は、年上の女性で、話し方に柔らかさがあった。「こういう仕事って、大変ですよね」と言われた時、思わず「はい…」とだけ返した。言葉はそれだけだったけれど、不思議と心がほぐれた気がした。定食の味噌汁が、いつもより美味しく感じられたのは、たぶんその一言のせいだった。

味噌汁の湯気越しに見えた自分の表情

目の前に誰かがいて、同じものを食べて、同じようなペースで箸を進める。その光景が、あまりに新鮮だった。ふとガラスに映った自分の顔が、少しだけ柔らかくなっていた。食べるという行為が、こんなにも「人間らしさ」を取り戻させてくれるとは思わなかった。弁護士や税理士の知り合いはいても、こんな風に「一緒にごはんを食べる」関係性って、意外と少ない。

会話がなくても救われた理由

別に深い話をしたわけじゃない。天気の話と、近所の定食屋の味の話だけ。それなのに、なぜか帰り道は軽やかだった。お腹が満たされただけじゃない。何かが満たされた。それは「人とつながっている」という感覚だったのかもしれない。独身で、誰もいない家に帰る日々でも、今日の一食があれば、もう少しだけ頑張れる。そう思えた。

食卓を囲むことの力を思い出す

実家にいた頃は、夕飯の時間が待ち遠しかった。親父が作る味噌汁はしょっぱすぎたけど、家族で囲む食卓には笑いがあった。社会人になってから、それが当たり前じゃなかったことに気づいた。今、自分が囲む食卓は、書類に囲まれたデスク。笑いもなければ会話もない。ただ胃に物を詰め込む時間。それでは心が持たない。

学生時代の部活帰りの夕飯

高校時代、野球部の練習後は腹が減って仕方なかった。家に帰ると、大皿のからあげや山盛りのご飯が待っていて、兄弟と取り合いながら笑って食べた。母の手料理を褒めたことはないけど、あの味が今でも忘れられない。疲れて帰ってきても、みんなで食べれば疲れがどこかにいってしまう。そんな力が食卓には確かにあった。

誰かと食べて笑ったあの時間の尊さ

社会に出てから、「食事」がただの栄養補給になった。でも、昔は違った。食事は楽しみであり、リセットであり、コミュニケーションだった。思い返せば、仲間と笑いながら食べた時間が、いちばん「生きてる」と感じられた気がする。司法書士のような孤独な仕事を続けるうえで、あの感覚を忘れたら、自分が自分でいられなくなる気がする。

人と食べるとどうして少し元気になれるのか

きっと、それは「肯定される」時間だからだと思う。何を話すでもない。ただ一緒にいて、同じものを食べて、同じ時間を過ごす。それだけで、「自分の存在」を誰かが受け入れてくれているような気がする。そんな時間が、週に一度でもあるなら、それは生きる力になる。忙しい日々のなかでも、そういう時間を忘れずにいたいと思う。

たまには誰かと食べてみてもいいかもしれない

仕事に追われていると、「そんな時間はない」と思ってしまう。でも本当は、その時間があるからこそ、仕事に向き合えるのかもしれない。誰かとごはんを食べること、それは贅沢でも特別でもなく、心の健康に必要な「日常」なのだと思う。司法書士という仕事の中に、もっと「人間らしさ」を取り戻す方法があるとしたら、それは食卓を共にすることかもしれない。

食べることは仕事じゃない

つい「効率」や「生産性」で物事を考えてしまう。でも、食べることは仕事じゃない。効率を求めるものじゃない。むしろ、非効率であるからこそ意味がある。誰かが箸を置いたあとに、少し遅れて自分も食べ終える。そんなズレやリズムの違いすら、今の自分には必要なのかもしれない。

時間がないと切り捨ててきた小さな幸せ

「忙しいから」「時間がないから」そう言って、いろんなものを切り捨ててきた。でも、実は大事なのは、その切り捨てたものの中にあったのかもしれない。コンビニ飯の背後には、誰かと食べる温かい食事の記憶が重なる。人と一緒に食べるだけで、心が回復していく。それを忘れたくない。

忙しい日々に取り戻す余白としての食事

この仕事に余白はない、そう思っていた。でも実際には、自分の中に「余白を許せない自分」がいたのだと思う。食事という小さな余白に、自分を癒す力があると気づけた今、少しだけ心が軽くなった。誰かと食べる、それだけで救われる夜が、確かにある。それを、大事にしていきたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。