心配されるのがつらかった。でも頼られたとき、やっと楽になれた

心配されるのがつらかった。でも頼られたとき、やっと楽になれた

心配されると、なぜかしんどい

「大丈夫ですか?」と聞かれるたびに、なぜか胸がざわつく。優しさだと頭では分かっていても、心がうまく受け取れない。心配されると、自分がちゃんとできていない人間みたいに感じてしまう。司法書士という立場もあってか、「しっかりしていなければ」というプレッシャーが強く、弱さを見せることに抵抗がある。むしろ頼られるほうが気が楽で、妙な話だが、誰かの相談を受けているときの方が、自分を肯定できる気がするのだ。

優しさのつもりが、プレッシャーになるとき

事務所で仕事をしていると、たまに友人や元同僚から「無理してない?」「体壊してない?」とLINEが来る。もちろんありがたい。でも、言葉の裏に「そんなに無理してるように見えるんだな」と思ってしまう。自分では頑張っているつもりなのに、外から見ると“心配される対象”になっている。それが、自分の努力を否定されているようで苦しくなることがある。

見透かされるようで、逃げ出したくなる

昔、体調を崩して数日休んだことがあった。復帰初日にお客様から「先生、大丈夫?顔色悪いですよ」と言われたとき、思わず「大丈夫です」と声を張った。でも内心は、まるで弱さを見透かされたようで落ち着かなかった。心配されることが、なぜこんなに不快なのか。自分でもよくわからなかったが、今思えば“見られている自分”を演じ続けるのに疲れていたのかもしれない。

「弱さを見せるな」と育った世代の影響

昭和後期生まれの自分は、家庭でも学校でも「男は黙って耐えるもの」「弱音を吐くな」と教えられてきた。そんな価値観の中で育ち、大人になって司法書士になった今も、無意識にそれを引きずっている。心配されることは“負け”だと思ってしまうのだ。だから、優しい言葉を向けられるほど、それを打ち消すように「大丈夫です」と繰り返してしまう。

頼られた瞬間にふっと軽くなる

ある日、取引先の若い担当者が困った様子で電話をかけてきた。「ちょっと専門的な件なんですが、どうしても先生に相談したくて…」と切り出され、最初は驚いた。でも話を聞くうちに、久々に「自分が役に立てている」と感じた。責任はあるが、嫌ではなかった。むしろその日一日、気持ちが軽くなっていた。

「お願いできる?」と言われた日のこと

開業して数年経った頃、依頼者の高齢のご婦人から「先生に任せたいの。私、何もわからないから」と言われた。そのとき、自分の存在が誰かの助けになっていると感じ、初めて司法書士という職業の意味が心に染みた。心配されるより、こうやって“任せたい”と言われる方が、何倍も心が救われるのだと気づいた。

心配よりも、信頼を感じたあの一言

「本当に任せていいですか?」――依頼者のその一言には、疑いではなく信頼が込められていた。そのとき、こちらも自然と「大丈夫です、安心してください」と答えることができた。誰かに必要とされているという実感は、自己肯定感を高めてくれる。心配では得られない感覚だった。

「仕事としての存在意義」がようやく芽を出す

日々こなしている業務に追われていると、何のためにこの仕事をしているのか見失いそうになる。しかし、誰かに頼られた瞬間、「ああ、これがこの仕事の意義だったんだ」と思い出す。登記の正確さも大切だが、それ以上に“人の不安を受け取って、安心に変える”ことができる。それが司法書士の価値なのだと、あらためて感じた。

司法書士という仕事の中で感じる孤独

どんなに依頼者と接していても、根本的には一人で仕事を抱えることが多い。それが司法書士の宿命だとわかっていても、やはり寂しいときはある。事務員さんはいても、最終判断は自分。愚痴を吐ける相手も少なく、孤独が積もっていく。

専門職は、共感より「解決」を求められる

相談者は共感を求めてくるのではなく、解決を求めてくる。だからこちらも、感情を押し殺して論理で答えなければならない。だが、こちらにも感情はある。心配されるのが嫌なのも、感情が置き去りにされる感覚があるからかもしれない。そんなとき、「先生、ちょっと話を聞いてもらえますか?」という“頼られ方”は、心の温度を少し上げてくれる。

誰にも相談できず、自分を閉じる癖

忙しさにかまけて、自分の悩みを話す場面がどんどん減っていった。気づけば「自分でどうにかする」が口癖になっていた。他士業の知り合いとは業務の話しかしないし、友人にも「元気そうだね」と言われると「うん」としか返せない。自分の孤独を、自分で見ないようにしていた。

苦情処理と孤独は、セットみたいなもの

トラブル処理のたびに、「どうしてこんなに一人で背負っているんだろう」と思う。もちろん仕事だから仕方ないのだけれど、誰かが「大変だね」「頼っていいんだよ」と言ってくれたら、もう少し気が楽だったかもしれない。でもそれすらも、頼られたことでようやく思えるようになった。

「なんでも一人でやる」が美徳になっていく

一人でどこまでやれるか、という感覚が染みついてしまっている。開業したときに「全部自分で背負う覚悟を」と言われた言葉が、いまだに呪いのように心に残っている。けれど、誰かに頼られたことで「一人じゃなくてもいいんだ」と思えるようになったことは、救いだった。

心配されるのが苦手なあなたへ

もしこの記事を読んでくれている人の中に、心配されるのが苦手だという人がいたら、少しでも安心してほしい。「頼られる」という経験が、それを軽くしてくれるかもしれない。誰かに必要とされることで、自分の中の硬い殻が少しずつ溶けていくのを感じるから。

頼られる経験は、自信じゃなく「安心」をくれる

頼られたからといって、自分が偉くなったわけでも、完璧になったわけでもない。ただ、「それでも大丈夫だよ」と言ってもらえたような気がする。心配されると身構えるけれど、頼られると自然体でいられる。この違いは、小さなようでいて大きい。

「助けて」が言えないなら、「任せて」を受けてみる

自分から「助けて」と言うのが難しい人は多い。かつての自分もそうだった。でも誰かから「お願い」と言われたとき、「じゃあやってみるか」と受け取ることならできる。それが結果的に、自分の心を助けてくれるというのは不思議な話だ。

「モテないけど、信頼はされてる」って意外と悪くない

恋愛はさっぱりだが、信頼して頼ってくれる人はいる。それで十分じゃないかと思えるようになった。誰かの役に立てることは、思っている以上に大きな支えになる。少なくとも、心配されて苦しくなるより、ずっと自分らしくいられる。

孤独に耐えるより、誰かの役に立つ方がずっと楽

一人で耐えていると、どこかで自分を見失う。でも、誰かの力になっていると実感できるとき、自分の存在がはっきりとする。頼られることで、自分の輪郭が戻ってくるような感覚になる。そういう毎日なら、少しは前向きに歩ける気がしている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。