休みが来るのがただただ怖い日
休日の訪れに心がざわつくようになった理由
昔は「やった、休みだ」と思えたはずなのに、今は土曜日が近づくと、心がそわそわして落ち着かなくなる。40代を超え、独り身で司法書士事務所を営む日々。平日は何かとやることがあって、事務員との会話もあるけれど、休日は突然、音もなく世界から切り離されたような気分になる。静かで誰にも邪魔されないはずの時間が、なぜこんなに怖くなるのか。それは、立ち止まったときにしか顔を出さない「孤独」というやつが、じわじわと近づいてくるからだ。
土曜の朝が怖いと感じるようになった
朝起きて、カーテンを開ける。晴れた空を見て「どこか行きたい」と思うかと思えば、現実は「どこへ行ってもひとりだしな」とつぶやいて布団に戻る。こんな自分にがっかりしつつも、動く気力が湧かない。平日は朝から段取りを考え、メールを確認し、登記書類と格闘する日々。その緊張感から一転、土曜の朝に感じる気の抜けた静けさが、逆にプレッシャーになる。予定がなければないほど、「何のために生きてるんだろう」と頭に浮かんでしまう。
予定がないことが重たくのしかかる
予定が白紙のカレンダーを見ると、それだけで心が重くなる。誰とも約束がない、誘ってくれる人もいない。何をしても誰にも報告する必要もなければ、誰からも反応はない。そんな状態が「自由」だと若い頃は思っていた。けれど今では、自由は時に「虚無」に変わる。特に年末年始やGWなど、世間が「賑わい」を前提に動く時期は地獄だ。人の楽しそうな雰囲気を横目に、自分だけが取り残されている感覚に陥る。
誰かと会う予定がないことへの焦燥
誰かと会う予定がない。それがこんなにも人を不安にさせるとは思っていなかった。大学時代は「ひとりでも全然平気」と言っていたのに、40代半ばを過ぎた今では、週末の孤独に耐えきれず、近所のスーパーでレジ打ちの女性に「暑いですね」と話しかける自分がいる。まるで話す相手が欲しくてレジに並んでいるような気さえして、そんな自分が少し哀れにも思える。でも、それが本音だ。
仕事が忙しい平日の方がまだ気が楽
平日は登記の確認やクライアントからの相談、役所への問い合わせなどであっという間に時間が過ぎていく。忙しくしていると「自分には必要とされている場がある」と感じられる。それが安心材料になる。だから皮肉にも、休日よりも平日の方が気が楽なのだ。日曜の夕方には「早く月曜が来てほしい」と本気で願っている自分がいる。まるで休日に追われるようにして仕事を求めている。
司法書士業は平日が勝負
司法書士という職業は、基本的に平日が勝負だ。銀行も法務局も役所も、みんな平日しか動いていない。だから、平日は自然と自分も動く。それがリズムになるし、居場所にもなる。しかし土日はそのリズムが一気に崩れる。あの「止まった空気」の中で過ごす時間がどうにも苦手だ。人と話すこと、誰かから依頼されること、それらが生きる軸になっているのかもしれない。
予定があるというだけで安心する心
たとえば午前中にひとつでも「銀行へ書類提出」とか「電話で相談対応」とか、そういう予定があるだけでホッとする。特に土曜にそれがあると、気持ちが落ち着く。小さな予定でも「今日はひとりじゃない」という感覚が生まれるのだ。逆に、何もない日はその安心感がどこにもない。予定に依存していると言われればその通りだろう。でも、この感覚に陥ってからは、週末のスケジュールを無理やり埋めることも増えた。
スケジュール帳が埋まっていることへの依存
気がつくと、スケジュール帳を開いて白紙を避けるようになっていた。「〇〇役所 申請」「〇〇銀行 面談」「登記完了予定」など、書いてあるだけで救われる気がする。逆に、何も書いていないページを見つけると焦りが出てくる。「何かしなければ」「このままじゃまずい」と思ってしまう。もはや予定が心の支えになっている。これは健全なのだろうか?と疑問に思いつつも、空白が怖いから、埋めるしかないのだ。
休み明けの会話に怯える瞬間
月曜になると、事務員さんや取引先の担当者から「週末どこか行かれました?」と軽いノリで聞かれることがある。その一言が、休みの間ずっと家にいた自分には突き刺さる。「ええ、まあ」とごまかす自分が情けない。でも、正直に「家でゴロゴロしてました」なんて言えば、変な空気になりそうで怖いのだ。そうして、また「誰かに話せるような休日」を求めて空回りする。
「どこか行かれたんですか」と聞かれる地獄
この言葉、悪気がないのはわかっている。ただ、独身のおっさんにとっては刃物だ。こちとらコンビニと布団の往復で終わった二日間。話すネタもないし、そもそも人と会ってもいない。そんな中で「どこか行かれました?」なんて聞かれたら、虚しさ倍増である。「家の掃除してましたよ〜」と笑って返すが、内心は「うん、何もしてねえよ」とつぶやいている。
何もしていない休日が恥ずかしくなる
休日に何もしなかった。それだけで、なぜか罪悪感のようなものが残る。他人と比べているつもりはないが、周囲が充実した休日を過ごしているように見えてしまう。SNSを見れば、美味しそうなランチ、家族で出かけた写真、恋人とドライブ…どれも自分にはない世界だ。それを見ては、「俺の休日って…」と情けなくなる。だから何もしていない休日ほど、誰にも知られたくないのだ。
孤独という現実を直視する時間
平日の忙しさに隠されていた「ひとり」という事実が、休日になると突然あらわになる。静かな部屋、冷蔵庫に入った昨日の残り物、話し相手のいない夜。そんな時間に、ふと「このままでいいのか」と不安になる。40代半ば、誰かと暮らしていたら違ったかもしれない。でも今さら変わる勇気もない。そんなジレンマを抱えて、また次の平日を待つ。
休みは自由ではなく孤独のリマインダー
休日って本来、自由な時間のはずだ。誰にも邪魔されず、好きなことをして過ごせる貴重な日。でも、独りで過ごす休日は自由というより「孤独の確認作業」になる。誰からも連絡が来ない、何もする予定がない、それが当たり前になってくると、自由なんて言葉は空しく響くだけだ。休日は、自分の現実を突きつけてくる鏡のようなものだ。
SNSを開く手が止まるとき
寂しさを紛らわせようとSNSを開く。けれど、そこにあるのは他人の幸せそうな姿ばかり。楽しそうな投稿を見れば見るほど、自分との差に落ち込む。「見なければよかった」と思いながらも、また開いてしまう。そして、スクロールする指が止まり、スマホをそっと裏返す。そんなことを繰り返している自分に、どこかで「もう、やめよう」と思う。でも、それもまた孤独から逃げるひとつの癖なのかもしれない。
仕事に逃げても救われないこともある
結局、どれだけ仕事で忙しくしても、ふとした瞬間に孤独はやってくる。日々の業務に追われ、なんとか平静を装っていても、夜ふと目が覚めた時や、休日に一人きりの部屋にいるとき、その静寂がすべてを暴いてくる。仕事だけでは埋まらない隙間がある。それを認めるのは少し怖いけれど、たぶんそこからしか次の一歩は始まらない気がしている。
結局どこかで立ち止まるしかない
どれだけ忙しさでごまかしても、人はどこかで立ち止まる瞬間を迎える。私にとって、それが「休日」だった。逃げ場を失った心が、静かな時間の中でうごめく。それを押し込めてまた月曜を迎えるのか、それとも少し向き合ってみるのか。今でも答えは出ていないが、せめて「怖さ」だけは誰かと分かち合いたい。そう思ってこの文章を書いている。
孤独と向き合うことを避け続けた代償
孤独に向き合わないまま過ごしてきたツケは、確実に心に積もっていく。仕事で埋める、趣味でごまかす、SNSで繋がったふりをする。それら全部がダメなわけじゃない。でも、どれも「本音」とは少し距離がある。本当は、誰かと他愛もない話をしたり、一緒に昼ごはんを食べたり、そういう小さな時間が恋しいだけなのかもしれない。孤独と向き合う勇気が、いつか自分を救ってくれる日が来ると信じていたい。