誰も来ない日曜日のような平日
平日の午前10時。シャッターは開けてあるし、看板もいつものように立てかけてある。でも誰も来ない。まるで日曜日のような空気が事務所を包む。電話も鳴らず、来客もなく、ドアのチャイムは沈黙したまま。パソコンのファンの音と、自分のキーボードを打つ音だけが、ぽつんぽつんと部屋に響いている。忙しい日々の中で、こういう静かな日は貴重かもしれないけど、あまりに静かすぎると、それはそれで心細くなる。誰かに必要とされている実感が欲しいと思ってしまうのは、贅沢なのだろうか。
待っているのは郵便屋さんだけ
正午前、ようやく玄関の前に影が差した。郵便屋さんだ。ハンコを求められるわけでもなく、書留でもない。ただのチラシと封書。にもかかわらず、「来てくれた」と内心ほっとしている自分がいる。郵便屋さんは言葉もなく、さっと配達物を置いて去っていく。でもそれでも嬉しい。この事務所にとって、今日は彼が唯一の訪問者だ。これが田舎の司法書士事務所の現実だ。派手な話もないが、こういう日も、登記はしれっと進んでいく。
せめてDMくらい届いてほしい
最近はDMすら来なくなってきた。少し前までは怪しい不動産関係や業務提携の案内がちらほら届いていたのに、今ではそれすらもない。メールボックスを覗いて空っぽだと、「ああ、今日も世界から忘れられてるな」と感じてしまう。登記の進捗には関係ないけれど、気持ちの浮き沈みには直結する。事務所というのは、業務が回っていても人の出入りがないと、どこか孤島のように感じるものだ。
電話も鳴らない静寂との付き合い方
電話が鳴らない日は、静かで仕事がはかどる……はずなのに、逆に集中できない。何かを忘れているんじゃないかと不安になる。そのうち、自分でスマホを手に取って「ちゃんと電波入ってるよな?」と確認している。着信履歴が昨日の夕方で止まっていると、なぜか責められているような気分になるのが不思議だ。静寂というのは、ありがたい反面、自分の存在価値を問うてくる厄介な相手でもある。
登記は誰に気づかれなくても進めなきゃいけない
司法書士の仕事は、基本的に「誰かに見せるためのもの」ではない。評価をもらうわけでも、拍手を浴びるわけでもなく、ただ確実に、丁寧に、進めなければいけない。たとえ誰も来なくても、登記の期限は変わらないし、申請ミスは許されない。派手さのない毎日でも、その積み重ねが信頼につながるのだろうけど、時々はその「積み重ね」が重すぎて、潰されそうになる。
作業の手は止められないという矛盾
「今日は暇そうですね」と言われても、こっちはこっちでやることは山ほどある。登記簿の確認、申請書の作成、補正のチェック。それらは全部、自分の手でしか進まない。「誰も来ない=暇」ではないけれど、見た目には伝わらない。それがもどかしい。でも、手を止めてしまったら、明日の自分がもっと苦しむ。だから今日も、誰にも見られていない作業を淡々と進めている。
仕事してる感はゼロだけど進捗はある
静かすぎる事務所で、もくもくと作業していると「本当に仕事してるんだっけ」と思う時がある。打ち合わせもなければ電話もない、顔を合わせる人もいない。でも気づけば、一日に何件も登記が完了している。数字や実績には現れるけど、心にはあまり充足感がない。それが地味な仕事の宿命かもしれない。でも、信頼されるって、こういう目立たない努力の積み重ねなのだと信じたい。
今日は誰とも喋ってない問題
ふと時計を見るともう夕方。朝から誰とも口をきいていない。事務員さんは資料整理で別室。お客さんはゼロ。電話もなかった。こんな日は、夜にコンビニで「温めますか?」と聞かれるのが唯一の会話になる。誰かと話すだけで心が軽くなると感じるのは、人間が社会的動物だからなのか。それとも、ただ単に寂しいだけなのか。いずれにしても、孤独というのは想像より地味で、しかし確実に効いてくる。
事務員さんと二人三脚の一日
事務員さんの存在が救いだと思う日がある。特にこういう来客ゼロの日には。別に特別な話をするわけじゃない。昼に「今日は何もないですね」と笑うだけ。それだけでも、張り詰めた空気が少し緩む。ありがたい存在だ。でも、そんな事務員さんに気を使わせてないか、逆にストレスを与えてないかと悩む日もある。経営者という立場と、ひとりの人間としての不器用さの板挟みだ。
たまにある沈黙のプレッシャー
一緒に働いていても、会話がないときはある。沈黙が気まずく感じることもあるけれど、それはたぶん自分の方の問題だ。元野球部だったころ、黙ってノックを受ける時間があったけど、そこには仲間との一体感があった。今はそれがない。ただの「無言の空間」だ。その違いが、余計に寂しさを際立たせる。でも、それでも一緒に働いてくれていることに、感謝の気持ちは忘れないようにしている。
雑談も気を使う年頃になった
昔は軽口を叩いて笑ってもらえたけど、今はそういうのも慎重になった。年齢の差、ジェンダーへの配慮、空気の読みすぎ。結局「無難な話題」しかできなくなってきた。でもそれって本当にいいことなのか。人との距離が縮まらないまま、仕事だけが淡々と進む。仕事は進んでも、人間関係は足踏みしたまま。そんな気がして、たまに自己嫌悪に陥る。でももう、どう話していいのか分からなくなっている。
こういう日ほど精神を削られる理由
意外に思われるかもしれないけど、来客がゼロの日って疲れる。肉体的には楽なはずなのに、気力がどんどん削れていく。目に見える達成感もなければ、人とのやりとりもない。ただ自分の思考と向き合うだけ。こういう時間って、良くも悪くも自分自身を直視させられるから、しんどい。
忙しいより虚しいが勝つ瞬間
「忙しい方がマシ」と思える日がある。呼ばれて、叱られて、焦って、そういう感情がある方が、まだ人と繋がってる感じがある。逆に、全く予定がなくて、誰とも話さず、静かに登記だけ進めていると、自分が「存在してるのかどうか」すら分からなくなる。心が空回りする。自分のために働いているのに、その自分が空っぽに感じるのだ。
数字には出ない疲れがある
申請件数や売上には一応の結果は出ている。それなのに、心が満たされないのはなぜだろう。誰からも見られていない、評価されていないと感じる時間が長いからかもしれない。数字に表れない労力、報われない努力。そんなものが積もっていくと、どこかで爆発するか、静かに崩れてしまいそうになる。だからこそ、こうして文章にして吐き出すことが、自分にとってはひとつの「救い」なのかもしれない。
それでも登記は淡々と進んでいく
そんなこんなで、今日も誰にも見られず、声もかけられず、登記だけが進んでいる。静かな部屋でパソコンに向かって作業を続けていると、「これが司法書士の本質かもしれないな」と思う。華やかでもなく、目立ちもしない。でも確実に社会の一部を支えている。そんな実感が、ある日ふとやってくる。だから続けられるのかもしれない。
変化のないことが安心につながることも
誰も来ない、何も起こらない、それでも登記は予定通りに終わる。その「変化のなさ」が、逆に心を落ち着けてくれる日もある。波風が立たない平穏のありがたさ。慌ただしさに疲れた日々があるからこそ、この静けさが心に沁みるのだろう。矛盾しているようで、それが今の自分にはちょうどいい。
今日も終わっただけで少し救われる
時計の針が18時を回る。結局、今日も誰も来なかった。でも、ミスなく登記を終えられた。事務所の電気を消して、玄関の鍵を閉めるその瞬間、「今日も無事終わったな」と小さくつぶやく。誰に聞かれるわけでもない、誰かが褒めてくれるわけでもない。でも、その一言が、自分をもう一日分、支えてくれる。