結婚相談所のチラシが机に置かれていた朝
ある朝、事務員さんが「先生、これ一応…」と机に置いていったのは、地域の結婚相談所のパンフレットだった。書類の山の中にそれだけが浮いて見えた。「ああ、また気を遣わせてしまったな」と思いながら、反射的に手に取ったのは隣にあった登記簿だった。毎日毎日、法務局と役所と依頼者と、目の前の案件をこなすだけで日々が終わっていく。そんな生活の中で、パンフレットの鮮やかな色だけが妙にまぶしく感じた。
真面目に読もうとして手が勝手に登記簿へ
実のところ、「結婚相談所」なんて言葉が出てくると、少し気まずくなる自分がいる。年齢的にも社会的にも、それなりの形を求められる時期はとっくに過ぎた。でも、いざ「婚活をしよう」と意気込んでも、結局目の前の仕事が優先される。資料の束から一枚取り出すとき、指が自然と登記簿に向かっていた。これがもう、身体に染み付いた“癖”なんだろう。
仕事モードが抜けないのは職業病か
人と話していても、住所や筆界の話になるとスイッチが入る。元野球部だった自分が、試合中のゾーンのような集中状態に入るのは、もはや仕事中だけになってしまった。書類に没頭しているときだけは、年齢や独身歴や世間体なんて全部吹き飛んで、ただ“自分でいられる”気がしていた。だけど、それってもしかしたら逃げなんじゃないか。そんなことを思う日が増えた。
優先順位がすっかり逆転していたことに気づく
誰かと過ごす時間より、書類と向き合う時間の方が長くなって久しい。ふとした瞬間、「このままでいいのか?」という問いが浮かぶ。でも、すぐに「今日中に提出しなきゃ」と思考が切り替わる。優先順位は明確すぎて、もはや疑問すら持たなかった。でも、朝のチラシは、その固まりきった優先順位に風穴を開けた気がした。
登記簿を愛しすぎた司法書士の日常
書類と過ごす日々は、孤独だけど安心でもある。登記簿は裏切らないし、ミスさえなければ静かに任務を全うしてくれる。人付き合いに不器用な自分にとって、それはまるで“心を許せる相棒”だった。でも、さすがにそれが“恋人枠”になってしまっていたと気づいたとき、ちょっとゾッとした。
恋よりも不動産情報にドキドキする現実
不動産の名義が変わるときのあの緊張感、間違いがあればすぐにバレるというプレッシャー、そして一発で通ったときの達成感。たぶんそれが、恋愛のときめきと同じ位置に来てしまっているのかもしれない。デートの予定より、登記完了予定のほうが優先される。冷静に考えると、なかなかの末期症状だ。
依頼者の幸せは願えるのに自分のことは後回し
相続や売買で依頼される方々に対しては、「これで安心ですね」と心から言える。でも、自分自身の人生については、つい「まあ、いまはいいか」と棚上げにしてしまう。誰かの人生の節目に関わる仕事をしているくせに、自分の節目には目を背けてばかりだ。
夜の独り言がだんだん愚痴に変わっていく
帰宅後、ついついテレビをつけながら独り言。「また一日終わったな」「今日も人とまともに話してないな」…そうやってつぶやく言葉は、だんだん愚痴混じりになる。優しさが滲んだ愚痴。自分でも分かってる。誰かに聞いてほしいだけなのかもしれない。
同年代の友人たちはもう家族の話ばかり
久しぶりに地元の同級生と会うと、話題は決まって子どもや家の話。最初のうちは「へぇ〜」と相づちを打っていたけれど、だんだん言葉が続かなくなる。自分だけ、別の時間を生きているような感覚になる。
集まりに行けば肩身が狭い
飲み会の席で、家族の話になった瞬間、少しだけトイレに立つタイミングを計る。独身の自分が話題を持っていけるネタが見当たらない。せいぜい最近の登記トラブルくらい。でも、それを話したら“またお前の仕事話か”とツッコまれるのがオチ。
「まだ独身?」という言葉の破壊力
「お前、まだ独身なん?」その一言が、軽く打たれただけでも心に突き刺さる。別に悪気がないのは分かってる。けど、自分の状況を否応なしに突きつけられるその瞬間、ちょっと笑ってごまかすしかない自分が情けなくなる。
ふとした瞬間に襲ってくる孤独と焦り
繁忙期が終わってふっと一息ついたとき、なんとも言えない虚しさがやってくる。依頼がない日は、少し嬉しいけど、誰にも連絡しないまま一日が終わると、なんだか世界から取り残された気がしてしまう。
帰宅後のコンビニ弁当と無音の部屋
夜、事務所の灯りを消して帰宅すると、そこには静まり返った部屋。冷蔵庫を開けても大したものはなく、結局コンビニで買った弁当を温める。テレビの音だけが部屋を満たすが、その音すら空虚に聞こえる。
自分の名前を書く相続登記なんてしたくない
時々思う。「このままだと、将来自分の相続登記を自分で準備することになるんじゃないか?」と。笑い話みたいだが、本気でそうなる気がしてならない。そして誰にも知らせず、誰にも引き継がれない何かを、淡々と書類に残すのだろうか。
でもそれでも仕事が好きだったりする
どれだけ愚痴をこぼしても、書類の山を前にするとやる気が出てしまう。それがもう「好き」ということなんだろう。司法書士の仕事が、孤独を埋めてくれている面もある。だから、今までここまで続けてこられた。
登記が決まる瞬間の快感と安堵
法務局から「登記完了しました」の一報が入る。その瞬間の、なんとも言えない達成感。誰かのためになったという実感。孤独だけど、確かに“必要とされている”という救いがある。
社会とのつながりを感じる数少ない場面
この仕事を通して、人とつながる。それは表面上の付き合いかもしれないけれど、それでも大切な役割を担っている実感がある。そういう瞬間があるから、続けられるのかもしれない。
それでも一歩踏み出したくなる夜もある
そんな日々の中でも、時々無性に“誰かと一緒にいたい”と思う夜がある。仕事じゃなくて、自分の話をただ聞いてくれる人がいたら、どれだけ救われるだろうと思ってしまう。
誰かと分かち合いたくなる瞬間
いい仕事ができたとき。大変だった手続きがようやく終わったとき。そんなときに「がんばったね」って言ってくれる人がいたら、それだけで十分だと思う。贅沢は言わない。ただ、少しの共感がほしい。
婚活アプリを開いてそっと閉じた指先
ある夜、思い切って婚活アプリを開いた。でも、写真を選ぶところで手が止まる。「こんな自分にいいねが来るわけがない」そんな思いが先にきて、結局アプリを閉じた。画面の明かりだけが、虚しく手元を照らしていた。
元野球部としての粘りをどこに使うか
若い頃、野球で培ったのは“粘り強さ”だった。試合に負けても諦めなかったように、人生もまだ終わっていないはず。これまで仕事に使ってきたその粘り、少しは自分の人生のために使ってみてもいいのかもしれない。
書類に打ち込む力はまだ余っている
気力も体力も、まだ残っている。独身だからできることもある。だったら、少し自分の幸せのために、その力を分けてやってもいいんじゃないか。そう思える日が、最近ほんの少しだけ増えてきた。
仕事も人生も最後まであきらめない姿勢
人生の終盤になって、「もっとこうすればよかった」と後悔するくらいなら、今動こう。たとえうまくいかなくても、司法書士らしく粘り強く、書類と同じように一歩ずつ進めばいい。それが自分の生き方なのだから。