午前九時の依頼人
朝の静寂を破るように、ドアのチャイムが鳴った。まだ湯気の立つコーヒーを片手に、俺は小さくため息をついた。いつもより早い来客に、嫌な予感がしたのは、たぶん経験からだ。
入ってきたのは、スーツの襟をただしすぎて皺だらけになっている中年の男だった。右手には赤い封筒。なぜかその封筒が、やたらと目を引いた。
古びた登記簿と赤い封筒
男は自分が「遺産分割で揉めている」と言った。出してきたのは数十年前の登記簿と、ある老人の自筆らしき遺言書。そしてその最後に、認印が押されていたはずだというが、そこには何もなかった。
「確かに押したんだ」と男は言うが、証拠はない。遺言が無効になれば、自分の取り分が消えるらしい。そんなことを俺に話してどうしたいというのか。
サトウさんの冷静な視線
隣の席では、サトウさんがすでに書類をスキャンしながら、眉をひそめていた。こういう時の彼女は、まるで少年探偵団のメガネの子のように頼もしい。言葉少なに、だが確実に何かを見つけ出そうとしていた。
「この封筒、ちょっと貸してください」彼女はそう言って、赤い封筒を机の隅に置き、ライトを当てた。見た目はただの紙だが、そこに秘密が隠されているかのようだった。
認印と遺産の境界線
登記簿に記された地番は、俺でも知ってる市内の一等地。価値は億単位。そりゃあ、印鑑ひとつで状況が変わるなら、何でもする人間もいるだろう。
問題は、その認印が本当に押されたのか、それとも最初から存在しなかったのか。依頼人は「押したけど消えた」と主張している。だが、そんなホラーめいた話が本当だとしたら、俺の業務じゃなくなる。
亡き老人の不可解な遺言
遺言書には、遺産の多くをこの依頼人に譲ると書かれていた。だが他の相続人たちは、そんな話は聞いていないという。そもそもその老人は、数年前に認知症の診断を受けていたという話もあった。
サトウさんは、スマホで過去の新聞記事を探っていた。地元紙の小さな訃報欄。そこには、老人が亡くなる直前に火災を起こしていたことが記されていた。何かが焼けたのだ。
押されたはずの印がない
封筒の裏面に焦げ跡があった。おそらく火災に巻き込まれた際のものだ。サトウさんはライトを強く当てた後、「ここに印があった可能性があります」と小声で言った。
赤インクの痕跡が、うっすらと残っている。もしかすると、朱肉の成分が熱で揮発し、目に見えなくなっただけかもしれない。でもそれを証明する手立ては限られていた。
元野球部の勘が告げるもの
こういうとき、野球部の感覚が役に立つとは思わなかった。サインプレーと一緒で、「ここだ」と思った瞬間を信じるしかない。打者は何を狙っているのか、守備位置はどうすべきか。
俺は封筒を手に取り、逆光で透かしてみた。すると、うっすらと楕円形の縁だけが見えた気がした。もしや……これは。
三塁線のように曲がった証言
依頼人は「その日、父の手を取って押させた」と言ったが、実際には父親はすでに昏睡状態だった可能性が出てきた。つまり、印は押されたが、その意思がなかった。これは重大な事実だった。
サトウさんが一言、「民法九百六十五条をご存知ですか?」と投げてきた。俺は慌てて法務六法を手に取り、確認した。「あぁ、これは無効だな」と独り言を漏らした。
やれやれ、、、俺の出番か
依頼人の目が泳いだ。「先生、どうにかならないですか?」いや、どうにもならないのよ。やれやれ、、、俺の人生、いつもこういう地味なトラブルばかりだ。
でも、こういうところが司法書士の腕の見せ所でもある。俺は椅子に深く座り直して、静かに告げた。「この遺言は使えません。他の方法を考えましょう。」
捺印されたのは誰の手か
さらに調べていくうちに、あの印影は依頼人の母親のものである可能性が出てきた。つまり、誰かが故意に他人の印鑑を使ったということになる。
そうなると、これは単なる無効な遺言ではなく、文書偽造の疑いすら出てくる。警察沙汰になる前に、依頼人はそっと席を立ち、封筒を置いて出て行った。
筆跡鑑定と嘘をつく書類
封筒の裏に残った印影は、精密スキャナで拡大した結果、他の文書に押された印と一致した。ただし、それは依頼人ではなく、その兄のものだった。
兄弟間の争いだったのだ。遺産という名のボールを巡って、長年の確執が浮き彫りになった。
シャチハタでは追えない真実
「印鑑なんて、今どきどうでもいいって思う人もいますけどね」とサトウさんがぽつりと言った。「でも、押すという行為には、想いが残るんですよ」
それを聞いて、俺は少し感心した。なるほど、彼女にかかればシャチハタでも真実が見えるらしい。
サトウさんの逆転満塁ホームラン
依頼人の出した書類には、日付が改ざんされていた。パソコンのタイムスタンプを元にそれを証明したのも、サトウさんだった。
彼女が静かに差し出したPDFファイルには、印影だけでなく、作成日や更新履歴まですべて記録されていた。もう逃げ道はない。
保存されたスキャンデータ
実は、父親の介護をしていたヘルパーが、以前に書類をスキャンして保管していた。そのデータに、本来の遺言書と認印がはっきり残っていた。
それにより、依頼人の主張は嘘だと完全に証明された。あとは、裁判所に報告書を提出するだけだった。
照合された日付と時刻
日付のズレ、文書の改ざん、印影の一致。すべてが揃っていた。もはや逃げ道はない。依頼人は観念したのか、自分から「すべて話します」と言った。
俺たちの仕事はここで終わった。重たい真実は残ったが、少なくとも書類の正義は守られた。
犯人は過去に封じられていた
サトウさんはデスクに戻って、コーヒーを啜りながら「やれやれですね」と言った。俺は「それ俺のセリフ」と言い返したが、彼女は微動だにしなかった。
登記簿と印鑑。紙の向こうには、人間の思惑と悲しみがつまっている。そこに、俺たちは寄り添うしかない。
隠された認知と認印の意味
後日、依頼人の兄が涙ながらに語った。「父は、あいつを認知してなかった。でも、最後に名前を呼んだんです」
そのとき、兄が父に代わって印を押したのだという。すべては、許しと愛情の裏返しだった。
赤い印が語る家族の選択
印影は消えても、そこにあった思いは残っていた。裁かれるのは事実だけだが、記憶まで消せるわけじゃない。
俺たちは、真実を記録する仕事をしている。その重さを、改めて思い知らされた一日だった。
解決と余韻の珈琲ブレイク
事件が終わると、なぜかコーヒーが飲みたくなる。苦くて、熱い。人生と一緒だ。
事務所の窓から見える空は、昨日と同じようで少し違っていた。
ふと口にする亡き父の名前
「俺の親父も、最後までハンコを大事にしてたな」思わず口にした言葉に、サトウさんが少しだけ眉を上げた。
「それ、初めて聞きました」そう言った彼女の声が、少しだけ優しく感じた。
サトウさんのため息混じりの喝
「ところで先生、次はちゃんと印鑑の場所に印押してくださいね。こないだ、また見当違いでしたから」
やれやれ、、、最後に怒られるのは、いつも俺だ。